旧日本軍の潜水艦「伊58」の乗組員だった 清積勲四郎 さん(96)(愛媛県松前町)は太平洋戦争末期、特攻兵器「回天」に乗り込んで艦から出撃する仲間を何人も失った。誰にも見送られず、決死の覚悟で命を散らせた特攻隊員らの慰霊の旅を続けて約20年。終戦の日の15日、自宅で静かにその死を悼む。(松山支局 長尾尚実)
16歳だった1945年1月に旧海軍の潜水学校を卒業し、伊58の乗組員になった。約100人いた乗組員の中で最年少。士官の身の回りの世話など雑用を担当していた。
半年後の同年7月、伊58にフィリピン沖の海域への出撃指令が出た。広島県呉市の港から山口県平生町にあった基地に立ち寄り、回天6基と搭乗員6人を乗せて出発。日本の制海権は既に失われ、航行ルートとなる豊後水道の太平洋側では、米軍の潜水艦に待ち伏せをされるような戦況だった。
日本を離れる前、艦は夜間に海底から浮上し、上官が回天の搭乗員たちに九州の陸地を見せているのに立ち会った。指示で酒を持って行くと、上官は「これが別れの杯になる」と搭乗員たちと酒を酌み交わした。
終戦までに5人が出撃した。後に聞いた話では、出撃の命を受けると、ほぼ皆が「お世話になりました」と告げたという。発射の時、搭乗員たちは誰にも見送られないままはしごを上り、ハッチを閉める。「どんな思いで乗り込み、自分の手で閉めたのか。今、考えてもかわいそうでね」
伊58は7月末、米軍の巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈させた。原爆の部品を運んだ帰り道だったことが後にわかる。しかし、「みんな腹の底から万歳を言えなかった」。その前日、回天の搭乗員2人が命を落としていたからだ。
終戦の知らせは艦上で聞いた。「回天隊の犠牲も出て、戦果も上げているのになぜ負けるんだ」。伊58は8月下旬に呉の港に戻り、清積さんも生還した。
配電設備の会社に勤めていたある日、伊58で一緒だった中村松弥さんから電話がかかってきた。年齢が近く、仲が良かったが、呉の港で別れたきりになっていた。中村さんは桜の咲く季節に毎年、回天の訓練基地があった大津島(山口県周南市)を訪ねる慰霊の旅を続けていた。「自分が生きているのは回天で出撃した人たちのおかげだ」と清積さんも加わることにした。
それから約20年。今春も島に足を運び、 冥福 を祈った。中村さんは数年前に鬼籍に入り、伊58の乗組員で生存しているのはおそらく清積さんひとり。それでも、若い命を散らせた無念を思い、「生きている限り、慰霊に向かう」。そう心に決めている。
◆回天=全長14.75メートル、直径1メートルの1人乗りの特攻兵器で、魚雷をベースに開発された。「天を 回 らし、戦局を逆転させる」との願いを込めて命名された。潜水艦の甲板に搭載して運搬され、タンカーなどの攻撃目標を見つけると、艦から発射され、搭乗員が操縦して体当たりする。戦死や訓練中の事故などで搭乗員106人が死亡した。