南海トラフに沈んだ日本海軍の「超巨大な空母」とは? 戦局挽回を期待された悲運の“切り札”

日本海軍の空母「信濃」は大和型戦艦の3番艦として竣工予定でしたが、空母に設計変更されます。しかし、 その実力を発揮することなく、未完成のまま南海トラフに沈みました。
和歌山県の潮岬沖に沈む空母「信濃」
駿河湾から紀伊半島、土佐湾を経て日向灘沖まで伸びる海溝「南海トラフ」。ここに沈んでいると言われるのが、旧日本海軍の巨大空母「信濃」です。同艦は、当時史上最大の空母として登場しながら、竣工後わずか10日で未完成のまま沈没するという悲劇に見舞われています。どのような艦艇だったのでしょうか。
「信濃」は元々、戦艦「大和」「武蔵」に続く同型の3番艦として、1940(昭和15)年5月に「110号艦」の名称で建造が開始されました。建造にあたり、横須賀海軍工廠に専用のドックまで建設されています。
しかし太平洋戦争の開戦が決定的となると、建造に必要な物資を航空機などの生産へ回すため、大型艦の建造が一時中断されます。さらに開戦後は、駆逐艦など小型艦艇の建造や、損傷艦の修理といった需要も急増。戦艦の優先度は下がっていたものの、船体工事は細々と継続されました。
1942(昭和17)年6月、戦局の転換点ともいわれるミッドウェー海戦において日本が主力空母4隻を失うと、海軍は空母の戦時急造を計画します。また、呉海軍工廠だけが製造できる、大和型戦艦用の46cm主砲を運搬する給兵艦「樫野」が1942年9月に撃沈されたため、呉から横須賀へ主砲を運ぶ手段が無くなり、「110号艦」を戦艦として完成させることも困難になります。 そのため、「110号艦」は戦艦として竣工させる予定を急きょ変更し、空母とすることが決定します。
しかし戦局は徐々に日本側不利に傾いていき、1944年(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦で、日本海軍は空母3隻を喪失。空母不足は更に顕在化し、「110号艦」は戦局挽回の切り札として、竣工時期が当初の1945年2月から1944年10月15日に早められ、突貫工事が進められます。ただ「信濃」と命名された1944年10月には事実上、日本海軍は空母に搭載する航空機にも事欠く状況に陥っていました。
建造中にドックへの注水ミスで船体が損傷するアクシデントがあり、11月19日にようやく「信濃」は竣工。基準排水量は6万2000トンと、空前の大型空母となりましたが、日本海軍が決戦と位置付けたレイテ沖海戦(捷一号作戦)には間に合いませんでした。 「信濃」では、先行して建造されていた「大和」の改良点を反映し、艦底部の防御を高めたほか、飛行甲板は500kg爆弾の直撃にも耐えられるように設計されるなど、戦訓も反映されています。なお、竣工に先立って公試が行われ、「紫電改」など航空機の発着艦試験が実施されています。 ただし艤装工事などは残した状態であり、日本海軍は未完成の「信濃」を空襲の激しい横須賀から呉へ移し、残工事を進めようと考えます。呉への回航を巡っては、航行ルートや時間帯について「信濃」艦長の阿部俊雄 大佐と、護衛する駆逐艦の艦長らのあいだで議論が交わされ、夜間に外洋を航行することが決定。11月28日午後、わずか3隻の駆逐艦「浜風」「磯風」「雪風」を護衛として「信濃」は横須賀を出港しました。
「不沈空母」なぜ沈んだ
航行中も艦内で工事は続いており、機関部も完成していないため、最高速度27ノット(50km/h)も発揮できない状態でした。外洋に出ると、艦隊は早くもアメリカ軍の潜水艦「アーチャーフィッシュ」によって発見、追跡されます。
日付が変わった29日の午前3時過ぎ、「アーチャーフィッシュ」は6本の魚雷を発射、うち4本が「信濃」の右舷に命中しました。 本来の防御力が発揮されれば、この程度では沈まなかったかもしれませんが、防火防水扉を閉鎖することで浸水・延焼被害を抑える「水密区画」などが未完成だったほか、気密試験が省略されていたこともあり、「信濃」は徐々に傾斜度を増していきます。加えて、乗員も乗艦したばかりで艦内に不慣れで、満足なダメージコントロールを行うこともできませんでした。 また、護衛にあたった3隻の駆逐艦は、レイテ沖海戦後に日本本土に戻ってきたばかりで、ソナーなど対潜装備も損傷しており、万全の状態ではありませんでした。 駆逐艦の曳航作業もむなしく、「信濃」は未明に沈没。位置は潮岬沖、およそ50kmの地点です。南海トラフの深海部に沈んだとみられており、詳細な沈没位置は現在も不明で、船体も未だ発見に至っていません。 「信濃」は竣工した時期が遅すぎ、戦局に貢献できるような舞台は既になかったほか、数々の悪条件が重なって本来の能力を発揮できず、「世界で最も短命な軍艦」ともいわれています。

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