インパール作戦・地獄の逃避行、死臭漂う密林「戦争は本当にみじめ」…100歳今も苛まれる

[100歳語る 戦後79年]<上>

戦場で刻み込まれた悲惨な記憶は、長い戦後を生きても癒えない。たとえ100歳になっても。太平洋戦争の終結から79年となるこの夏、今も戦争の傷に苛まれる人たちの思いをたどる。
道端で倒れた傷病兵の顔にハエが群がっている。衰弱し、追い払うことすらできない。ふらふらと歩く兵士は汗と泥にまみれ、うつろな目をしていた。
1944年、宮城県から出征した菅原利男さん(100)は20歳の夏、ビルマ(現ミャンマー)の密林で地獄を見た。「日本は勝っている」。内地を出た時のそんな思いは吹き飛んだ。
東北の山村で育った。高等小学生の頃に始まった日中戦争では、日本軍の連戦連勝が伝えられ、「早くお国の役に立ちたい」との思いが胸に宿った。43年4月、徴兵検査を目前にして結婚式を挙げ、その冬、福島の部隊に入営した。
この頃、日本軍は英米が中国に物資を輸送するルートを遮断するため、インドのインパールを攻略する構想を立てていた。44年3月から、最終的に推定9万の兵力を動員して侵攻した。
菅原さんが内地での訓練を終え、輸送船と鉄道を乗り継いでビルマに入ったのは、同年の夏場だった。十分な補給計画がないずさんな作戦は、すでに頓挫していた。配属先の歩兵部隊の拠点に向かうと、200人以上いた隊員は作戦中に死傷し、30人程度にまで減っていた。「二度と祖国の土を踏むことはできない」と絶望した。
敵機の爆音に気づくと、林の中に身を隠す日々。ある時、顔に日章旗がかぶせられた遺体が横たわっていた。よく見ると女性と子どもが納まった写真を抱いている。「無事を祈っていた家族だろうか」と胸が締め付けられた。
45年3月には、英軍などに包囲されたビルマ中部の都市・マンダレーから脱出する。敵から砲弾を撃ち込まれた瞬間、腰に火花が散り、棒で殴られたような衝撃で倒れた。あたった砲弾の破片は身につけていた帯剣で食い止められ、命拾いした。
逃避行で足を負傷した戦友は銃で自決。兄のように慕っていた小隊長は両目を負傷した。
「明日もジャングルを進むのなら、いっそのこと小隊長を殺して自分も死のう」。疲労のあまり心中を決意し、軍刀に手をかけたとき、小隊長から「菅原、明日は早いから休め」と声をかけられた。はっと我に返った。「倒れるまで連れて行こう」と思い直した。
食べ物もなく、沢で取ったカニを食べると下痢をした。塩分が不足すると疲れが増し、汗をなめてもしょっぱくなくなる。だから、手に入れた岩塩は何よりも大事に持ち歩いた。
終戦直前、タイとの国境付近にあった野戦病院にたどり着き、負傷した戦友を運び込んだ。「やっと助かった」とみんなで涙を流した。喜んだのもつかの間、マラリアにかかって兵士は次々と命を落とした。
現地で終戦を迎えた。捕虜収容所に送り込まれ、復員船に乗り、47年6月に母国の土を踏んだ。家を空けていた3年間は「何十年も過ぎた」ように感じた。
「利男が帰ってきたぞ」。親類が声を上げると、玄関で母親が飛び出してきた。
戦後は稲作に励み、妻みゆきさん(98)と生きた。平穏な暮らしを取り戻したが、過酷な体験は夢の中でよみがえった。
いつの間にか、命からがら脱出したマンダレーにいる。戦車に追い回されるうち、死んだ戦友から「そっちはダメだ。こっちに逃げろ」と声がかかる。悪夢から覚めると、ひどい寝汗をかいていた。
約20年前、戦場での体験を手記にまとめた。残された遺族のことを思い、戦友が悲惨な死を遂げたことは全てを書き記さなかった。
しかし100歳になった今、ありのままの戦場の姿を伝えなければとの思いを強くする。「雨にたたかれた遺体は膨れ、死臭を放ち、うじがわく。そして、ハゲタカにつつかれる。戦争は本当にみじめなんだ」。そう訴える声は力強かった。(川畑仁志)
インパール作戦「無謀」の代名詞
インパール作戦は「無謀な作戦」の代名詞として歴史に刻まれている。当初、「3週間程度」としていた作戦期間中にインパールを攻略することはできず、将兵は雨期の泥水にまみれた山道をビルマ側に引き返した。補給は途絶え、敵の追撃におびえつつ、飢えや病との戦いも強いられた。敗走する道筋には遺体が連なり、「白骨街道」と呼ばれた。
戦死・戦病死者数の明確な集計は困難とされるが、約3万人が死亡したと推定する資料もある。

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