〈 《能登半島地震》護岸が崩れ、風呂は沈下。旅館に海水が入ってくる…和倉温泉の旅館から聞こえる悲鳴「私達でさえ心が折れそうになる現場もあります…」 〉から続く
「あまりに被害が酷くて、とても観光どころではない」と言われていたのに、なぜか来訪者が後を絶たない。不思議な光景だった。
地震で傷ついた能登の観光はどうなるのか。これまでは金沢駅の観光案内所で「大丈夫です。地元も歓迎していますよ」と勧められたスポットを巡ってきた( #1 ~ #5 )。広い半島でも「中能登」と呼ばれる中南部だ。では、被害が大きかった「奥能登」の観光地はどんな状況にあるのだろう。
まだアクセスルートが規制されている箇所もあるので、石川県珠洲(すず)市の見附島(みつけじま、別名・軍艦島)を目指した。幹線道路に近くて、行きやすい場所にあるからだ。到着後、しばらく様子を見ていると、パラパラとではあるが、訪れる人が続く。住宅の倒壊が相次いだだけでなく、津波にも襲われた地区だ。観光客を受け入れる雰囲気など全くない。
いったい、人々はどんな思いで来ているのか。
軍艦のように見えた名勝「見附島」
能登半島は日本海に突き出た先端を境にして、外洋に面した波の荒々しい北西側を外浦、富山湾に面した穏やかな南東側を内浦と呼ぶ。
見附島は内浦にある。波打ち際から約150m。静かな海に置かれた菱餅のような小島だ。
全長162.5m、最高所の標高29.5m。周囲は白い断崖になっていて、島の両端は船首のように細くなる。その姿がまるで軍艦のように見えたことから、「軍艦島」の別名がついた。正式名称の見附島は、平安時代の高僧・空海が佐渡から能登へ渡った時に「見つけ」たという言い伝えに由来するのだという。
島の上部はほぼ平坦で、頭髪のようにはえた森がある。冬には雪が降るにもかかわらず、まるで温暖な土地であるかのごとく、照葉樹林の群落が青々と繁る。植生地理学上、貴重なのだそうだ。
江戸時代に記された『能登名跡志』には「風景たぐひなき地なり」とあり、古くから知られた名所だった。
こうしたことから石川県は2017年、天然記念物と名勝に指定した。
地震でやせ細り、容貌が変化
ところが、それから10年も経たずして、大惨事が起きた。
2024年1月1日、珠洲市を震源とする能登半島地震が発生したのだ。
同市の震度は6強。長くて激しい揺れだけでなく、4mとも5mとも言われる津波が押し寄せた。このため見附島は海側の半分が崩れ落ちた。陸側の半分はなんとか助かり、人々が訪れる海岸からだと、かろうじて軍艦の形に見える。だが、全体に落石が目立ち、やせ細ってしまった。上部の森も小さくなって、「頭が薄くなった」と評する人もいる。
これまでの地震や台風でも崩落は進んでいたが、一気に容貌が変わってしまった。
珠洲市の被害はそれほど大きかった。
若い男女が訪れなくなった「えんむすびーち」
石川県の取りまとめでは(2024年8月27日時点)、死者97人(他に関連死25人)・重傷者47人・軽傷者202人。5519棟もの住家が損壊し、うち1731棟は全壊だった。
中でも見附島がある宝立(ほうりゅう)町は深刻だ。
小中学校のある市街地では軒並み住家が倒壊したうえ、津波に呑み込まれた家も多かった。
そこから歩いて10分ほどのところにある見附島の周辺も惨憺たるものだ。
電柱が傾き、全壊の住宅が骸(むくろ)のような姿をさらす。ニョキニョキと隆起したマンホールは切り取られるなどの応急処置が進んでいるものの、道路や駐車場などの地面には津波が運んだ砂が今も残る。
見附島が眼前に見える園地では、津波の痕跡が生々しい茶屋にブルーシートが張られていた。傾いた公衆電話ボックスにもブルーシートが巻かれたままだ。
そこから南へ3kmほど下った恋路海岸までは「えんむすびーち」と呼ばれていた。見附島を正面に見る海岸には鐘が据え付けられている。鳴らすと恋が成就するのだという。
だが、鳴らしに訪れる若い男女はいなかった。鐘の周囲はアスファルトや土がえぐられ、地中の基礎がむき出しになっている。コンクリート製の境界ブロックや護岸も散乱し、津波の破壊力のすさまじさを物語る。
コーン、コーンと鳴らす人がいなくはない。だが、恋への願いではなく、「こんなことになっても鳴るかどうか試してみた」「鎮魂の意味も込めて」と話す人もいた。
「兄に奥能登の被害の実情を見せて回っています」
訪れる人は高齢者の割合が高いように感じる。「どこから来られたのですか」。そのうちの一人に声を掛けてみた。
「地元です」。70代の女性が答える。車で5分ほどの集落に住んでいて、「大阪に住んでいる兄に見せに来ました」と話す。
女性は同じ能登半島でも志賀(しか)町の生まれだ。10歳ほど上の兄は大阪へ出た。女性は結婚を機に珠洲市に移り住んだ。
志賀町の実家は別の親族が継いでおり、ケヤキをふんだんに使った頑丈な造りだ。それでも今回の地震には耐えられず、全壊になった。最大震度7を計測した観測点のすぐ近くなのである。
珠洲市の自宅も全壊だ。「親類の家はことごとく全壊です。ケガをした人がいなかったことには救われましたが」と話す。
実家や女性の自宅は解体せざるを得ない。しかし、大阪の兄は元大工で、「いや、直せる。俺が直してやる」と聞かなかった。
「遠くに住んでいると、ニュースや情報が少ないせいか、どれだけ酷いありさまか分からないのです。だから発生から半年が経過し、少し落ち着いてきたので、実家や私の自宅、そして奥能登の被害の実情を見せて回っています」と語る。
兄は自分の目で見た「現実」に愕然とし、声が出ない様子だった。
被害の実情が知られていない
「この近くでは軒並み家が倒れた通りがあったり、津波で壊れた家の上に車が載っかっていたり、ほら、見附島のすぐそこでも、今は撤去されましたが、漁船が打ち上げられていたでしょう。これだけ酷い状態なのに、あまりに報じられていないように感じます。本当の姿を流したら、人が来なくなるのかな。東日本大震災では傷つく人がいるから津波の映像はあまり流さなくなりましたよね。今回も同じことが起きているのでしょうか。同じ石川県内でさえ、私が二次避難した県南の加賀地方では、被害の実情が知られていませんでした。兄が『まだ直せる』と思ったのも当然です」とため息をついていた。
あの日、女性は20kmほど離れた「須須(すず)神社」に初詣に出かけていた。
地元の信仰を集めてきた由緒ある神社だ。鎌倉時代の作と考えられる「木造男神像」は国の重要文化財に指定されており、源義経や弁慶にまつわる伝説もある。今春、國學院大学の神道文化学部を卒業し、大学院に進んだ歌手の相川七瀬さんが再々訪れていることでも知られる。
「下に行ってはいけません! 大津波が来ます!!」
社殿は、海岸のすぐそばにある駐車場から、鬱蒼とした森を抜けた先にある。この森は広葉樹林の原生林的な様相を示していて、国の天然記念物に指定されている。
女性は拝殿に立ち、家内安全を願って賽銭(さいせん)を入れた。そして、鈴を鳴らそうと麻縄を握った瞬間、立っていられないほどの揺れが始まった。
「慌てて縄を放して、拝殿の戸にしがみつきました。そうしたらもう放せません。怖くてつかまっているしかありませんでした」
長い揺れが収まった境内では、手水舎が倒壊していた。「参詣に来た人が輪になってしゃがんでいるのが見えました」と話す。
「早く帰ろう」。震えながら駐車場に向かおうとしていると、神官が「下に行ってはいけません! 大津波が来ます!!」と、叫びながら走っていった。その袴(はかま)姿は今でもありありと覚えている。
「もし、あの神官がいなければ、私達は津波に呑まれていました。命の恩人です」と女性は語る。
事実、駐車場では車が流されるなどした。一帯の海岸沿いでは、津波に呑まれた集落が壊滅的な状況に陥った。
そんな体験をした女性は、兄に被害の実相をしっかり目に焼き付けてもらいたいと考えていた。
「どんどん報じてください。写真もいっぱい撮ってください。皆に本当のことを知ってもらわないと、地震でどうなるか分かってもらえません。防災を考える材料にもなりません」。そう力説して、見附島を後にした。
「更地になったから、帰るところはありません」
「お兄さん、どこからきたの?」。笑顔が絶えない高齢の4人組に声をかけられた。
隣の能登町に住む70代の女性と、同級生らのグループだった。独り暮らしだった女性は被災後、金沢市に住む同級生宅へ身を寄せていたのだが、町に帰って来たついでに4人で見附島へ足を延ばしたのだという。
「この辺りの被害も酷いわねぇ。私の家も大変だったけど、他人の家が壊れたのを見ていると、お腹に力が入って苦しくなる。輪島は火災、観光名所の白米千枚田の方に行ったら、ものすごい山崩れで海岸の道路が埋まっていた。どこもかしこも凄い状態だわ」。女性が同級生らに説明する。
私が「能登町の自宅はどうなったのですか」と尋ねると、「全壊よ。地震の時、隣の家が勢いをつけて倒れてきたの。ウチも大きく傾いてしまいました。既に解体して、更地になったから、帰るところはありません」。キッパリと言う。
家は再建しないのだろうか。「この顔を見て、建て直す力があると思う?」と逆に質問された。
話術で笑わせて周りを明るくする女性の、隠しようのない本音と悲しみ
「子供に『能登町に帰って来るつもりはある?』って聞いたら、『帰らん』と言う。『家を建て直すお金がないんだけど、どうにかならない? 支援金でも』と水を向けたら、『銀行へ行って、借金できるか聞きなさい』と言われました。銀行の窓口では『1000万円借りたら、月に2万7000円ほどの金利を生きてる間に払ってください』だって。これだと元金はまるまる借金で残るのに、死んだらどうなるのよ。子供は払ってくれません。窓口では『土地や家は銀行のものになります』と、まあそんな話よ。はははは」
まるで演劇のような語り口で教えてくれたのだが、笑える話ではない。
「国民年金しかないから、つつましい暮らしでした。父ちゃん(夫)が死んだ時、『箸は2本使うなよ。1本にしなさい』という遺言だったの。これを、ずーっと守ってきました。2本だとご飯をガバッとつかめるけど、1本だと無理でしょう。だから、やせてしまって……。あんた、この話を信じる?」と、お笑い芸人も真っ青なトークだ。冗談めかした話ではあるが、切り詰めた生活だったのは間違いない。にもかかわらず、住むところがなくなってしまった。
「もう、鬱になりそうよ。父ちゃんの墓に行って『どうすりゃいいの』と聞いたら、『こっちに来いや』と言われたわ。あははは。布団に一人で寝ていると、寂しくなる。男のぬいぐるみでも探して、抱いて寝ようかな。あっ、あんたを誘ってるわけじゃないよ」
話術についつい引き込まれて、私も同級生らも吹き出してしまう。女性は笑わせて周りを明るくするのが好きなようだが、隠しようのない本音と悲しみは随所に見えた。
別れ際に連絡先を聞いた。「こんなお婆ちゃんだけど、一緒に寝に来てくれるの? はははは、嘘よ。また会いましょう」。笑い声を残して去って行った。
少女時代を懐かしく振り返る人々
その後も、訪れる人に聞き続けた。
戦時中、50回を超える空襲があった大阪で焼き出され、珠洲市に避難していたという90代の女性は家族と訪れた。「懐かしい見附島がどうなったか気になって」と話す。家を失って心細かっただろう少女時代、海にすっくと立つ見附島は気持ちの支えになっていたに違いない。
愛知県に在住している中年の女性は、地震が起きてから見附島のすぐ近くにある実家に再々帰って来るようになった。「今回は提出する書類があって」と言う。
実家は地震と津波で全壊になった。「住んでいた兄は墓がある山に避難し、真冬なのにそこで2晩寝たそうです。携帯電話がつながらなかったから、もしかして犠牲になったのではないかと心が乱れました」と振り返る。
見附島には「ちょこちょこ来ます。この海岸で泳いで育ち、愛着がありますから」と話していた。
関東に住んでいる60代の女性も「市内の実家へ帰ったついでに来ました」と言う。
実家は軒並み家が倒壊した地区にあり、母親が独りで暮らしていた一軒家も全壊になった。「外観こそ保っていますが、解体予定です。再建はしません。母は既に金沢の妹宅に身を寄せています」と話す。
女性は「見附島は心の中にある懐かしい場所です。ただ、島が元気な頃はそれほど気に留めていませんでした。ところが崩落でやせっぽちになってしまい、強く意識するようになりました」と語る。
見附島を訪れる「かつて関わりのあった人」たち
こうして見附島を訪れているのは、観光というより被災して家を失った住民や、実家が消えてなくなる出身者、かつて関わりのあった人が多かった。
能登半島地震の被災地には大きな喪失感がある。
見附島は最も被害が酷かった地区にあり、痛々しい姿になりながらも、ぽつんと独りで立ち続けている。その気丈な姿に励まされるのか。失われゆく故郷で最後に残された原風景なのか。
ゆかりのある人々がそれぞれの思いを胸に秘め、引き寄せられるようにして訪れているのは間違いないようだった。
撮影=葉上太郎
〈 「避難所の暗闇で、夜が永遠に明けないかと思った」群馬に住む大工が、仕事を減らしてまで能登半島へボランティアに通う理由 〉へ続く
(葉上 太郎)