「また全部だめになった」「心折れた」頻発する災害に焦燥の被災地、能登豪雨の現場を歩く

記録的豪雨から一夜明けた22日、産経新聞の記者2人が河川の氾濫や土砂崩れが多数発生した石川県輪島市や珠洲市に入った。ようやく入居できた仮設住宅を追われた人、大切な思い出の品が水没した人…。「また全部だめになってしまった」「心が折れた」。元日の地震に続く災害に、疲れた表情の住民らはやり場のない怒りを抱え、これからの暮らしに不安を募らせた。
家財・遺品を奪い去った濁流
若山川が氾濫した珠洲市。市内に入ると、川の橋がゆがんでおり、水流のすさまじさを物語っていた。
氾濫によって多くの建物が浸水被害を受けた。同市若山町広栗の仮寛佳(かりひろよし)さん(63)の倉庫もその一つだ。
1月の地震で家屋が大規模半壊した。無事だった家財などを川辺の倉庫に避難させていたが、倉庫ごと水没。家財だけでなく、両親の遺品など大事なものを保管していたが、雨がやんで安全になるまでは確認もできない状況が続く。
「川が氾濫したことは、50年間生活する中で一度もなかった。地震だけでなく豪雨被害も重なるとは」と仮さん。地震後の1月20日から近隣の小学校などでの避難生活が続いており、仮設住宅入居のめども立っていない。「もう本当に疲れ果ててしまった。珠洲で生活するのに限界を感じている」と語る口調には力がなかった。
若山町地区では、そばの山が崩れ、土砂で完全につぶれてしまった家があった。住人は助け出されたが、死亡が確認されたという。
仮設住宅に入れても、今回の豪雨で生活が振り出しに戻った人も多い。市内の上戸小学校にいた油谷久雄さん(68)は、同校に並ぶ仮設住宅から避難してきた。
「やっと復旧して水が使えるようになった。風呂に入れて、やっと人間らしい生活ができるようになったと思ったら、また全部だめになってしまった」とうなだれ、絞り出した。「簡単にやり直そうという気持ちにはなれそうにない。人が住むのに向いていない土地なのかもしれないと今さらながら思う」
2度も災害に見舞われた理不尽さへの嘆きや怒りが込められていた。
本来であれば美しい田んぼが広がる珠洲市。だが、ほとんどが四角い池のようになり、土砂と流木も至る所に転がっていた。被災者の生活が元に戻り、田んぼに黄金色の稲穂が揺れる日が早く訪れてほしい。そう祈らずにはいられなかった。(土屋宏剛)
傾いた家、憔悴する住民
金沢方面から輪島市内へ向かう途中、両側の山に目がいった。元日の地震で崩れた箇所が網などで補修される一方、少し離れたところでは崩れたばかりの山肌がむき出しとなっている。能登地震の発生直後、現場に入ったときの記憶がよみがえり、そこで再び災害が発生していることを実感した。
石や草木が散乱し、所々冠水する山道を抜け、何とか市内に入った。川の水位は高く、茶色く濁った水がすさまじい勢いで流れている。
市立輪島病院の近くに立ち並ぶ仮設住宅。周囲から一段低い場所にある住宅もあり、この日もまだ足首まで水が残っていた。向伸夫さん(68)は地震で家が半壊。公民館で約8カ月間の避難所生活を送り、9月5日に仮設住宅に移ったばかりだった。
「津波のような濁流だった。食料を確保しようと外に出たが、水の流れが強く、気を抜くと自分も流されそうになった」と振り返った。
土砂崩れのあった同市杉平町では傾いた家があった。高齢夫婦とその息子夫婦、孫の5人暮らし。住人の50代女性は「地震で壊れた壁などを修復したがまた壊れた。もう心が折れてしまった」とうなだれた。
住宅が流され、住民らが行方不明となった同市久手川町を歩くと、ガソリンのにおいがした。ペシャンコにつぶれ、見る影もない車が目に入り、近くの民家では中大治さん(66)が、家の中の泥をかき出していた。「地震の次はこれか。やっと落ち着いたと思ったらこのありさまだ」。そうつぶやき、黙々と手を動かしていた。
作業員の安否が分からなくなっている中屋トンネルへ。手前3キロほどから車は通れず歩いて向かうが、足首から膝までが隠れるほどの泥に足をとられて体力を消耗する。途中、崩落した土砂とともに民家の瓦屋根が道路をふさいでいた。屋根のブルーシートが、地震の被災地であることを改めて突き付ける。
山から流れ落ちる泥水の勢いが強く、何度も転倒しそうになる。残り800メートルほど。猛烈な勢いの水流が道路を横切っているところで断念した。先の道は土砂崩れで木々が完全に道をふさいでいた。安否不明者や捜索にあたっている人たち。全員の無事を強く願った。(鈴木文也)

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