私が、東京拘置所で袴田さんに最初に面接し、語り合ったのは、1980年7月中旬だった。彼は45歳、まだ公判中で刑が確定しておらず、被告人という身分だった。
私は当時、法務省勤務。法務大臣官房会計課矯正予算係事務官として刑務所の予算要求と全国の刑務所に予算を配布する仕事をしていた。
夏は1カ月あまり、東京拘置所に泊まり込んで大蔵省(現在は財務省)に提出する概算要求書を作成する。数字の根拠となるさまざまな資料を作るのだが、中でも精神的に負担の大きいものが死刑関係の資料作成であった。私は死刑に関係ある者と面接し情報を得ることにした。そして、面接した一人が袴田巌さんだった。
「袴田事件」のあった1966年6月30日は、ザ・ビートルズが初来日し武道館で公演した日でもあった。それから14年経った1980年は、奇しくもビートルズ受難の年でもあった。同年1月に、成田空港でポール・マッカトニーが大麻所持で逮捕され、12月8日にはジョン・レノンが暗殺された。また、大平首相が選挙期間中に急死し、弔い合戦の様相を呈した衆参同一選挙は自民党が圧勝したのも、この年だった。
そんな年の7月中旬、私は、東京拘置所で初めて袴田さんに会った。袴田さんは、全く面識のない私の面接希望を快く受け入れてくれた。その頃の袴田さんは、無罪を主張して最高裁に上告し、結審を待っている状態だった。
事件の翌年、1967年から刑務官として仕事を始めた私も、事件のことはもちろん耳にしていたが、直接自分の仕事に関係する事件でもなかったし、冤罪(えんざい)であるなどとは微塵も思っていなかった。
1966年6月30日未明、静岡県清水市の味噌製造会社専務宅から出火。焼け跡から、刃物による多数の傷を受けた一家四人の死体が発見され、同社の従業員だった袴田巌さんが犯人として逮捕された。
現場の状況から清水警察署捜査本部は、恨みによる犯行、妻との不倫関係のもつれ、金目当てなどといったいくつかの動機を考え、4人もの惨殺だから「体力のある若い男の単独犯」という推理をして物語を組み立てて、元プロボクサーの袴田さんをまずは容疑者に確定したようだ。捜査本部は、「従業員H浮かぶ」と発表し、マスコミを利用して、袴田さんを追い詰めていくのだった。そして4日後の7月4日、工場と2階の従業員寮を家宅捜索し、袴田さんのパジャマを押収。マスコミには「血のついたパジャマ発見」と大々的に発表した。
袴田さん1人を重要参考人として捜査対象にし、任意という名の、実は厳しい取り調べが開始されたのだった。
しかし、被害者の服装がパジャマ姿でなくYシャツ姿などであったことや、腕時計をしている被害者も複数いたという状況からすれば、殺人は全員がまだ起きている早い時間ではなかったのかと疑われる。金品の物色はその後、長い時間をかけて行い、午前2時前に死亡推定時刻をわからなくするためにわざと物音をたて、その後放火したと推理する方が自然であると思われる。
時間を早くすると袴田さんのアリバイが成立してしまうので、捜査側が犯行時刻をあくまでも「未明」にしたということなのだろう。
任意の事情聴取なのだから嫌なら断ることもできる。だが、刑事はさまざまな圧力や脅しをかけるので、仕事を休み出頭せざるを得ない状況に置かれる。
袴田さんは、犯人ではないという理由を懸命に語り、刑事の質問に誠心誠意供述し続ける。一方、刑事は袴田さんの重要な供述を一つずつ、崩す証拠を作り上げていく。
犯行時間はアリバイのない時間帯を選び、犯行時の服装をパジャマと断定。さらに裏木戸から出入りさせることによってガソリンを取りに行く導線を確定するなど(捏造(ねつぞう)あるいは虚構によって)証拠を揃えた段階で逮捕したのが8月18日だった。袴田さんは、ひと月半もの間、いくら潔白を主張しても信じてもらえなかったのだ。
1966年9月9日、検察は袴田さんを「住居侵入、強盗殺人、放火事件」で静岡地裁に起訴し、冒頭陳述で、袴田さんが子供と一緒に暮らすアパートを借りる金銭を奪う目的で、パジャマを着用して強盗に入ったと起訴事実を述べた。
ところが、パジャマから検出された血液とガソリンは再鑑定ができないほどの微量であったため、公判の維持ができないとみたのか、一審の公判中の1967年8月2日、検察は工場内の味噌醸造タンクから、従業員が発見したはっきりと多量の血がついた5点の衣類を証拠として提出し、冒頭陳述で述べた起訴事実の着衣の内容を、パジャマからその五点の衣類に変更したのだ。
この発見は全く不可解なものだった。前年の家宅捜査の際、味噌タンクはすべて詳細に調べてあった。真犯人がタンクに入れたというのであれば、それはすなわち袴田さんの犯行ではないことを証明したようなものなのだが、9月12日実家を家宅捜索してズボンの共布を発見、「袴田のズボンに間違いない」という証拠を添えたのである。
驚くべきことは、裁判所がそれを認めたことだ。人権を守るための刑事訴訟法の趣旨から考えれば、公訴そのものが無効であるはずで、アメリカならばその時点で無罪放免になっているだろう。袴田事件はそのまま公判が維持され、静岡地裁は判決において、次のような殺害等の方法を推認して死刑判決を下したのだった。
当時、袴田さんが収容されていた居室(独居房)は1929年に竣工した鉄筋コンクリート三階建ての北舎二階の一室だった。今は全面改築で取り壊されグラウンドになっている。
私は舎房中央にある部屋に通された。12畳程度の部屋で、会議テーブル2基と椅子が6脚あった。エアコンがある部屋である。
袴田さんは短パンにTシャツ姿で部屋に入ってきた。身長は165センチの私と同じくらいだが、胸板に腹、太もももよく締まっている。
「わざわざありがとう。掛けてください」。私が笑顔で言うと、にっこりといい笑顔を返してくれた。
無味無臭! 好感の持てる男性……それが四人を惨殺したといわれる男の第一印象だった。
「ここの1日は長いです。ちょうど14年経ちました」
袴田さんは私の目を見て静かに語った。14年経っても裁判が終わっていないというのは何か大きな問題がある事件である。
一審の静岡地裁は2年弱。これだけの大事件ではスピード結審と言える。控訴審の東京高裁は長かった。7年8カ月もかかっている。そして最高裁は4年を過ぎていた。
「14年間という拘置所の生活で困ったこと、こうしてほしいと思っていることをお聞きしたいのですが」私はあらかじめ準備してあった面接の目的に沿った質問を始めた。
「こういう場所ですから、不自由は覚悟していますが……」と前置きして、袴田さんはいくつか語ってくれた。
拘置所の蔵書として法律書をそろえてほしいということを最初に言った。冤罪を晴らすために拘置所に入ってから勉強したという袴田さんの言葉は重かった。
「満足に学業に励まなかったことを後悔し、本当に必死で勉強しました。まずは読み書きからです。裁判所に提出する上申書を書くために難しい言葉も覚えました。貧乏人ですから高価な本は買えません。拘置所で本を貸してもらうのですが、法律の専門書はないのか貸してもらえませんでした。兄と姉が自分たちの食費をけずって差し入れしてくれたお金で本を買うしかないのですが、もったいなくて使えません」
私は返事ができなかった。2、3年で転勤を繰り返す拘置所長はじめ幹部職員は冤罪なんてあるわけがないと思っている。現場で実際に被告人の悲哀を目にしていないからわからないのだ。したがって、被告人が裁判を有利にしようとすることに加担できないという立場にあって法律の専門書の貸与には極めて消極的になる。拘置所の蔵書のほとんどが娯楽物。これが真実だ。
袴田さんは無理難題を押し付けることは一切なかった。終始穏やかで、相手の立場に気を配って言葉を選んでいることがわかった。このときの袴田さんの心境を私は、最高裁判所はこの国の正義を守るところだから必ず真実をわかってくれる! という揺るぎない信頼感だと思った。彼は別れ際、私が差し出した握手を求める手を握って、「僕は裁判所を信じています。ビクビクしているのは僕を犯人に仕立て上げた警察です」と、笑顔で言った。
1980年11月19日、面接をしてから4カ月後、最高裁判所は袴田さんの上告を棄却した。ついに死刑が確定し、袴田さんは死刑確定者という身分になった。
81年7月中旬、恒例の夏の予算要求泊まり込みで、袴田さんと二度目の面接をした。場所は、前年と同じ北舎の部屋を使わせてくれた。
私は、死刑が確定したことについて何と言えばいいのか悩んでいた。慰めの言葉が見つからないまま、そのときを迎えた。ただ、一年前と違ったことは、私が一冊の法律雑誌を持参したことだった。それは、前年12月に再審の開始が決定した免田事件の特集記事が載っている雑誌だった。警察と検察が証拠物を隠していたこと、アリバイ証人の供述調書の日時を改竄したことなどが書かれている。
私は法務省の職員という身を守るために、誰にも言わなかったが、そのとき既に袴田さんの冤罪を信じていた。彼の人柄が何より無実を証明する証拠だと思ったのだ。
「事務官、また呼び出していただいて感謝しています。この袴田、ボクサーとして地獄のトレーニングで鍛えた男です。裁判所には負けませんからご心配なく。人間の裁判官には過ちもあります。でも神様はわかっていらっしゃる……」
袴田さんは、去年よりもしっかりしていると思った。その言葉にはおごりも見栄もなく、あふれる闘魂をまだ抑えているという感じがした。
袴田さんは4月20日、再審請求書を提出したと話してくれた。
私は、持ち込んだ雑誌を彼に示し内容をざっと説明した。袴田さんは雑誌を手にとってページをめくる。警察の証拠隠しのあたりに目を移すと、険しい表情になった。免田さんが味わった苦しみに共感し、警察に対する怨念がよみがえったのだろう。
「読みますか?」
「お願いします。嬉しいです……」
それだけ言うと声を詰まらせた。私の涙腺も緩んだ。我慢できずに立ち上がって、袴田さんに背を向け窓の外を見た。景色などない。目の前には汚れて黒ずんだコンクリートの塀があるだけだ。私はこみあげてくるものをグッと飲み込んでから再び袴田さんの前に座った。
いつの間にか1時間半が経っていた。昼食時間だからと呼び戻しに来た刑務官と一緒に袴田さんを送りに舎房の二階に上がった。すさまじい蒸し暑さだった。
私は担当職員に私の泊まり込み期間中に限って、雑誌を貸与してくださいとお願いした。困った顔をした担当職員に、保安課長にはお願い済みですと言った。
二つ返事で了解した担当刑務官がメモ用紙を差し出し、「ここに今日の日付と返還期日を書いて署名してください。本の裏面に貼っておきます。捜検で取り上げられないようにするためです」(注・捜検とは刑務官による居房内の検査で逃走の防止、不正物品の所持を防止するために毎日行うことになっている法律で規定された職務の一つ)
40歳前後の刑務官はメモに自分の印鑑を押してから雑誌に糊付けした。保安課長にお願い済みというのは私のでまかせで、虚言とわかった上で彼ができる精一杯の善処をしてくれたことは、彼の表情でわかった。担当刑務官は「必要なところはノートに書き留めておきなさい」と言って雑誌を袴田さんに手渡した。
袴田さんは担当に頭を下げた。彼にも担当刑務官の善意が伝わったのだろう。
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(元刑務官・ノンフィクション作家 坂本 敏夫)