桶川ストーカー殺人事件25年「もういいよ、という詩織の声が聞こえてこない」 がん患った父が続けた講演120回、娘が愛した「ひまわり」に込めた願いは―

およそ25年前の1999年10月、埼玉県桶川市で大学生の猪野詩織(いの・しおり)さん=当時(21)=が元交際相手の兄らに刺殺された「桶川ストーカー殺人事件」が起きた。この事件をきっかけに、ストーカーの対策強化を求める社会の声が高まり、翌2000年には「ストーカー規制法」が成立。その後も法整備が進んできたが、警察への被害相談件数は近年、年間2万件前後と高止まりの状態が続く。詩織さんの父憲一(けんいち)さん(74)は事件後、2度のがんを患いながらも、当時浮き彫りになった警察の不適切な捜査や、報道被害について120回に及ぶ講演活動を続けてきた。心の拠り所となったのは、笑顔が絶えなかった娘が愛した「ひまわり」の花。そこに込められた願いとは―。(共同通信=井上昂星)
▽警察「告訴はテストが終わってからでも」
猪野詩織さんと写真に納まる父憲一さん(左)と母京子さん(右)=撮影年月日、場所不明
事件のきっかけは1999年6月、詩織さんと当時交際していた男との別れ話だった。その後、男や兄、知人らが集団で詩織さんの自宅へと押しかけ両親を脅迫。自宅周辺では詩織さんを中傷するビラが大量にまかれたり、憲一さんの勤務先に300通以上の手紙が届いたりと、嫌がらせやストーカー行為は執拗に続いた。 詩織さんや両親は、近くの埼玉県警上尾署に何度も被害を訴えたが、対応した署員が言い放ったのは、余りにも冷たい言葉だった。 「嫁入り前の娘さんだし、裁判になればつらい目に遭うことがありますよ」 「告訴はテストが終わってからでもいいんじゃないですか」 詩織さんと両親が、それでもあきらめずに被害を訴え続けた結果、上尾署は名誉毀損容疑で告訴状を受理。だが、告訴した詩織さんの調書を上尾署員がその後に改ざんし、告訴取り下げを要請していたことが事件後、発覚することになる。 そして、悲劇は起きてしまった。
詩織さんが殺害されたJR桶川駅周辺=2024年11月、埼玉県桶川市
1999年10月26日、埼玉県桶川市のJR桶川駅前。詩織さんはいつものように駐輪場に自転車を止めていたところ、背後からナイフで刺され、死亡した。 首謀したのは交際相手だった男の兄で、元東京消防庁消防士の小松武史(こまつ・たけし)受刑者(58)=殺人などの罪で無期懲役確定=だった。ほか殺害の実行役ら3人も、後に懲役18~15年が確定。交際相手だった男は指名手配中、自殺した。
▽埼玉県警「極めて不適切」
事件後、埼玉県警が公表した調査報告書
埼玉県警は事件後の2000年4月に公表した調査報告書で、詩織さんへの対応についてこう総括した。 「事態の重大性を認識せず、告訴事件捜査の業務負担を回避しようという意識によるもので、被害者の訴えに対する真摯な姿勢が全く欠如しており、極めて不適切だった」 県警本部長らが責任を取る形で処分され、調書の改ざんに関与した元上尾署員3人は、後に虚偽有印公文書作成罪などに問われ有罪が確定した。 また捜査に問題があったとして憲一さんと妻京子(きょうこ)さん(74)が起こした民事訴訟では、県警に名誉毀損に関する捜査怠慢があったと認定し、県に550万円の賠償を命じた判決が確定している。
▽小松受刑者「心からめいふく祈る」
小松武史受刑者が共同通信に宛てた手紙
共同通信は今年9月、複数回にわたって千葉刑務所にいる小松受刑者と手紙をやりとりした。 小松受刑者は「ココ(刑務所)から生きて出(ら)れると思っておりません」などと現在の心境をつづった。遺族に対しては「直接お会いしてからでなければお話はできません。ごめいふくを心からお祈り申し上げます」と記した。 一方、猪野さんの調書改ざんに関わり有罪となった元上尾署員3人のうち2人は、いずれも取材に「思い出したくない」と口を閉ざした。
▽今も納骨できぬまま
詩織さんの両親を取材する記者(右)=2024年11月、埼玉県上尾市
今年11月、憲一さんは埼玉県上尾市の自宅で、取材に応じてくれた。話を聞いた私は記者1年目で、桶川事件が起きた後に生まれた世代だ。 居間の棚には、詩織さんの七五三や成人式の写真がたくさん並び、周りをひまわりの花の飾りが彩っている。25年がたった今も、納骨はできていない。「一緒の空気を吸って、妻か私、先に亡くなった方と一緒に入ろうと思って」。憲一さんは静かな口調で語ってくれた。 事件から半年後、絶望の中で暮らしていた憲一さんは、弁護士に勧められて講演活動を始めた。あの時、何度も救いを求めた警察は「そんなの痴話げんかでしょ」と取り合ってくれなかった―。講演では当初、そうした怒りや悔しさを聴衆にぶつけるように語っていたという。 それが変わったきっかけは、不思議な体験をしたことだった。2005年から立て続けにがんを2回患い、体重が一時17キロ減るほど心身ともに衰弱していた頃のこと。 「詩織の元に行きたい」。そんな弱気な思いに駆られた時、「まだ駄目」と詩織さんに止められたように感じたという。 この体験を機に、憲一さんは「娘の犠牲を無駄にしないため、何を伝えるべきか」を考えるようになった。特に訴え続けているのは「一人で抱え込まないこと」の重要性だ。 警察にストーカー被害を相談する際も、友人や家族、職場の同僚などが付き添うことで、被害者が孤立しない環境を作る必要があると語る。また地域の住民や学校の先生、職場の上司などに遠慮なく頼り、全体で「安全の壁」を築くことが、被害防止の鍵だと強調している。
▽警察批判だけでなく、激励も
京都府警からの依頼で、警察での講演が初めて実現したのは2017年のこと。その後は各地の警察学校などで、桶川事件を知らない世代の生徒たちにも向き合ってきた。講演中は、詩織さんがプレゼントしてくれたネクタイピンを欠かさず身につけている。「詩織とともに伝えたい」との思いからだ。 講演では、事件当時の捜査を厳しく批判する一方、若い警察官たちに「警察なくしてストーカー犯罪の撲滅は不可能」と激励のメッセージを伝えることも忘れない。講演を聴いた生徒からは「どんなに小さな悩みでも、寄り添える警察官になりたい」といった声が寄せられたという。 事件を機に、ストーカー被害を防ぐための法整備が繰り返されてきた。事件翌年の2000年には、つきまといや待ち伏せ行為を罰するストーカー規制法が成立。その後も法改正がされ、2021年には衛星利用測位システム(GPS)を利用した位置情報の追跡や見張り行為も規制対象となった。 ある埼玉県警幹部は事件当時、男女関係に関する相談は「警察が介入しにくい時代だった」と振り返り、「事件は確実に警察改革の要因になった」とも語る。 ただストーカー被害の相談件数は減少しておらず、課題は山積している。こうした状況について、憲一さんは「ストーカー行為をためらわせる罰則の強化が必要だ」と話し、さらなる法整備の必要性を訴えている。
▽「もういいよ」の声が聞こえるまで
事件では、報道機関の問題点も浮き彫りになった。 遺族は事件後、多数の報道陣に自宅などに押しかけられるメディアスクラムに苦しんだ。記者たちは早朝から深夜まで居座り、写真を撮り続け、おびただしい質問を浴びせた。詩織さんの名誉を傷つけるような虚偽の内容の報道も流されたという。 「報道機関には正確な情報を伝え、被害者や遺族に寄り添う役割を果たしてほしい。国民の知る権利を背負う責任を忘れないでもらいたい」と憲一さんは語る。 25年の間、全国各地の警察や行政、報道機関、学校など積み重ねてきた講演活動は約120回に上る。心身を患いながらも、長年講演を続ける理由を問うと、憲一さんはこう答えてくれた。 「お父さんもういいよ、今まで頑張ってくれてありがとう、という詩織の声が聞こえてこない」 長年、憲一さんと妻京子さんを支えてきたのは、詩織さんが愛した「ひまわり」の花だった。事件が起きた後、詩織さんの友達がみな、ひまわりの花を持って自宅へやってきた。2人はそこで初めて、詩織さんがひまわりを好きだったことを知ったという。 そして、事件が起きる直前の夏。家族の誰も植えた覚えのないひまわりの大輪が、自宅の庭に突然咲いたこともあった。「強いもんね、ひまわり。勇気づけられ、私も好きになった」と、京子さんは振り返る。
▽7歳の詩織さんが書いた手紙
亡くなった猪野詩織さんが7歳の時に未来の自分宛に書いた手紙の模写=2024年11月
2人がずっと大事にしている手紙を見せてくれた。詩織さんが7歳の時、家族で行った「つくば万博」で、未来の「2001年の自分」へ宛てて書いたものだ。 事件から2年後、突然自宅に届いたその手紙は、こんな内容だった。 「2001年のわたしはどんなひとになっているのかな。すてきなおねえさんになっているかな。こいびとはいるかな。たのしみです。」 詩織さんが夢見ていた未来は、卑劣な事件によって、断たれてしまった。手紙の文言は、知人の書道家に書き写してもらい、額に入れて大切にしまっている。
2024年11月に猪野さんの自宅前に置かれていた手紙
詩織さんの命日から、少し日がたった今年の11月1日、うれしい出来事があった。自宅の玄関先に、憲一さんと京子さんを気遣う内容の手紙と、詩織さんへの花束がふと置かれていたのだ。「こうした反応が、活動を続けていく力になる」と憲一さん。
「ひまわりの種」という言葉が書かれた猪野憲一さんの名刺
憲一さんは事件後、自分の名刺に「ひまわりの種」という言葉を刻んでいる。いつかストーカー犯罪が根絶し、安心して暮らすことができる社会がやってきた時、この種が芽吹き、大輪の花を咲かせる日が来ることを信じて。 ストーカー被害を防ぐために何をすべきか、そして社会はどう変わるべきか―。娘を失った悲しみを抱えながらも、憲一さんは未来への希望を胸に、訴えを続けてきた。 25年の歳月を経ても、未だ花開くことのないひまわりの種に、思いは募る。 「いつ咲くかは分からない。でも、大きな花に育ってほしい」

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする