〈 《悠仁さまが4月から筑波大へ》星を見る少女、姉さん団地…つくば市で多くの都市伝説が生まれ、“魔境”とまで呼ばれた意外な理由 〉から続く
1991年に起きた「『悪魔の詩』翻訳者殺人事件」。筑波大学助教授だった気鋭のイスラム学者、五十嵐一(ひとし)氏(享年44)が何者かによって学内で殺害された事件である。
五十嵐氏はイギリス人作家、サルマン・ラシュディ氏(77)の小説『悪魔の詩』の翻訳者だった。同書については、その内容がイスラム教を冒涜するものであるとして、イランの最高指導者ホメイニ師が1989年、「ラシュディ、および本の出版に関与した者たちへの死刑」を宣告していた。
「これ知ってる? 今日、大学の先生が殺されたって……」
当時筑波大学の学生だった筆者は、事件があった日のことをよく覚えている。
同年7月12日、昼過ぎにアルバイト先の新聞配達店に顔を出すと、折込みバイトをしている顔なじみの主婦数人が、眉をひそめて届いたばかりの夕刊記事を開いて見せた。
「これ知ってる? 今日、大学の先生が殺されたって……」
“比文”(比較文化学類)の助教授だった五十嵐先生の講義はそれまで受けたことがなかったが、物議を醸した『悪魔の詩』の翻訳者であることは知っていた。エレベーターホールで何者かに刃物で頸動脈を切られて殺害されており、イスラム関係者による「国際テロ」を否応なく想像させた。
遺体の第一発見者は清掃員の女性で、午前8時過ぎだったという。死亡推定時刻は前日の夜8時ころから12日の午前1時。五十嵐助教授は夜間、何者かに殺害された後、そのまま発見されずに朝を迎えたことになる。
当時、筑波大学は3学期制を採用しており、7月の頭から夏休みに入っていた。現場となった人文社会学系A棟は24時間、誰でも入ることができたが、文系の学類では、夏休みの夜中にキャンパスに行くような学生はまずいなかったはずである。
なお、学内にはいまの時代では当たり前の防犯カメラも設置されておらず、実行犯の映像や写真は一切、記録に残されていなかった。
それでも、日本で起きる殺人事件が迷宮入りすることは極めて稀である。そのうち犯人が逮捕されるものと思っていたが、意外なことに1~2週間が経過しても犯人に関する有力な情報は伝わってこなかった。
事件発生から1カ月ほど経過した8月の朝、前述したバイト先の新聞店の店長から声をかけられた。
「昨日、つくば中央署の刑事が2人で来たんだ。あの事件が起きた日、配達員が不審な人を見なかったかって。Sさんの連絡先、知らない?」
大学構内の配達を担当していたSさんは工学系の学類に所属する学生だったが、お盆の時期で実家に帰省しており、連絡先は分からない。「分からないです」と言うと、店長はこう続けた。
「事件から1カ月も経って、いまさら不審者の聞き込みしてるようじゃなあ。犯人はもう外国に逃げてしまったんじゃないの」
店長も、外国人犯人説を信じ切っているようだった。そもそも、朝刊が店舗に到着するのは午前2時過ぎである。折込み広告をセットして、出発する時刻は早くて3時半。そのころには実行犯は逃亡していたはずだ。
結局、Sさんも不審人物を目撃していないことが分かり、刑事の聞き込みは空振りに終わった。9月に入り2学期が始まると、ところかまわず情報提供を呼び掛けるチラシが学内に貼られていたが、ネットやSNSがない時代のことである。事件が風化するスピードは速く、そのうち学生の間でも話題に上らなくなった。
結局、実行犯を特定できないまま、事件は2006年、公訴時効を迎えている。
一時期、短期留学生として筑波大に在籍していたバングラデシュ人が事件当日、成田空港から出国していたという報道もあった。
もっとも、もしこの留学生が犯行に関与していたとしても、国際テロ事件などほとんど扱ったことがないはずの茨城県警にとって、バングラデシュと連携して国際捜査をするというのはハードルの高すぎる難事件だったことは間違いない。
なお、『悪魔の詩』の著者であるラシュディ氏は2022年、ニューヨークで講演した際にイスラム革命防衛隊を支持する24歳の男の襲撃を受け、重傷を負っている。五十嵐助教授の殺害犯が海外に逃亡している場合、時効は成立していない可能性が高く、その意味でこの事件はまだ終わっていないのである。
筑波大学卒のエリート医師が妻、子どもを殺害する凄惨な事件も
五十嵐教授が殺害された3年後の1994年には、つくば市で母子3人が殺害される事件が発生した。「つくば母子殺人事件」と呼ばれたこの事件で逮捕されたのは、被害者の夫、父であった医師、野本岩男(当時29歳)である。
筑波大学医学専門学群を卒業したエリート医師だった野本は94年10月、自身の愛人問題などから妻(31歳)と口論になり、つくば市の自宅で妻の首を絞め殺害。その後、長女(2歳)、長男(1歳)も殺害し、遺体を横浜港に遺棄した。
野本はその後、カモフラージュのための家族捜索願を茨城県警に出す一方で、この期に及んで愛人との不倫旅行を計画するなど身勝手な行動に走っていたが、自家用車でつくば市から高速道路を経由して横浜港へ向かうNシステムの記録が決め手となり、11月25日に逮捕された。
「殺人医師」――命を救うはずの医師が、家族全員を殺害し遺棄したこの事件は、世間を震撼させた。
野本の逮捕を受け、筑波大は異例の会見を開いた。在学する学生の逮捕ならともかく、卒業生の犯行について出身大学がコメントすることは珍しいが、野本が卒業後に研修医として筑波大附属病院に勤務していたことや、社会的反響を考慮しての対応だったのだろう。
医学専門学群副学長の三井利夫教授(当時)は会見で「野本医師であってほしくない思いが強い。学生らも強烈な印象で受け止めているだろう」と語った。逮捕されてもなお、野本の犯行が信じられないという口ぶりではあったが、野本自身は早々に犯行を自供し、刑事裁判は粛々と進んだ。
医師としての野本の評判は決して悪いものではなかったとされ、裁判では医学部時代の同級生などから4000通の減刑嘆願書が集まった。無期懲役判決が確定した野本は間もなく、服役30年の節目を迎える。
「心の砂漠地帯」のイメージは払拭されているが…
90年代につくばで起きた2つの殺人事件は、都市伝説が流れた80年代のイメージとは異なる「リアル」の衝撃があった。しかし2000年代に入り、TX開業による交通インフラの強化、また新駅周辺の再開発により、殺伐とした「心の砂漠地帯」のイメージは払拭されている。
つくば市の人口は増加しており、10年後の2035年には水戸市を追い抜き、県内最大都市になる見通しだ。
この春より悠仁さまの入学を受け入れる筑波大、そして警護を担当する皇宮警察、警視庁、茨城県警は、卒業までの4年間、絶対に事件・事故を起こしてはいけないという重いミッションと向き合い続けることになる。
あえて東京から離れた筑波大を選択した悠仁さまにとっても、「試練の4年間」となることは間違いない。
(欠端 大林)