「まるで地獄絵図」 サリン事件で女児2人を救助 捜査幹部のあの日

警視庁の50代の捜査幹部が、あの日を振り返った。
20代の巡査長として警視庁本部(東京都千代田区)で勤務していた1995年3月20日の午前8時過ぎだった。「地下鉄霞ケ関駅にガソリンがまかれた」「人形町駅や神谷町駅で多数の人が倒れている」と110番が相次いだ。
すぐに先輩と霞ケ関駅に向かった。日比谷線のホームは、目や口を押さえてうめき声を出して座り込んだり、口から泡を吹いて倒れたりしている乗客であふれていた。「まるで地獄絵図のような修羅場だった」
停車していた車両内に液体が染み出たビニール袋があった。銀色に光っているように見えた。その時はサリンとは知らなかった。記録に収めようと、持っていた一眼レフカメラのシャッターを切った。手が震えた。
ホームにはランドセルを背負う小学1~2年生くらいの制服姿の女児2人がいた。ハンカチで口を押さえて座り込んでいる。「助けなければ」。そう思った直後、2人を両脇に抱え、地上への階段を駆け上がった。
途中で「つらくないかい。すぐに外に出られるからね」と声を掛けた。ぐったりとしつつも、うなずく女児を地上で救急隊員に引き渡した。
少しほっとしたが、晴天なのに周囲が夕暮れのように暗く見えた。それでも「状況を一刻も早く他の捜査員に知らせなければ」と本部に戻り、写真を現像した。上司には「きれいに撮れているよ」と言われたが、写真はよく見えなかった。
ある幹部に呼び止められ、目を見せると、「縮瞳だね」と言われた。夜に警察病院に行き、「パム」という解毒剤を投与された。
2日後、山梨県上九一色村(現富士河口湖町)のオウム真理教の施設への家宅捜索に向かった。「サティアン」と呼ばれる施設内は物が乱雑に置かれ、用途が分からない機械がたくさんあり、「とにかく不気味で、非常に空気が重い」と感じた。
その後も指名手配容疑者の捜査に当たった。事件では、14人が亡くなり、6000人以上が負傷した。被害届を提出してもらうために被害者の元を訪ねた。
「オウムに対する怒り。亡くなった人や負傷した人、その家族を思うと、必ず犯人を法の裁きにかけるという強い思い」があった。
当時、教団は周辺住民とのトラブルなどがあり、警視庁も情報収集を強化していたが、事件を防げなかった。
「尊い命を失った方、後遺症に悩んでいる方がいる。警察の大切な任務の一つは犯罪の未然防止。じくじたる思いがある」とし、「事件を風化させてはならず、しっかり伝承していく必要がある」と強調する。【木下翔太郎】

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