その日、警察無線は何を伝えたのか。「ゲリラ事案」の一言が組織のスイッチを入れた。地下鉄サリン事件、指令の意図を読み解く

1995年3月20日午前8時過ぎ。その若手警察官は東京23区内のある警察署で当直勤務を終えるところだった。警視庁本部などからの警察無線を確認する仕事を割り振られ、署内のある部屋にいた。警察用語で「リモコン室」と呼ばれる場所だ。 この後に決められた仕事はない。どう過ごそうか―。そんなことを考えていると、急を告げる警察無線が鳴った。「駅で異臭、病人が出たようだ」。最初はそんな内容だったと記憶している。 ただ、時間がたつにつれ、無線の緊迫度は変わっていく。「警戒区域を設定」「G事案の可能性」―。治安を守る警察官の本能に突き刺さる言葉が次々と流れてきた。 「G事案」はGuerrilla(ゲリラ)の頭文字を取ったもので、過激派による事件を表す。まだ「テロ」の概念が浸透していない時代。「地下鉄サリン事件」。後にこう呼ばれる事件の始まりだった。 共同通信は警視庁への情報公開請求で、当日の警察無線の音声を入手した。音声を読み解くため、当時は若手、今はベテラン警察官のA氏に解説を依頼。発生直後の現場の動きを振り返る。(共同通信=地下鉄サリン事件取材班)
▽1時間の無線記録
八丁堀駅
公開された無線記録は約1時間10分。最初は午前8時21分、警視庁本部から八丁堀駅を管轄する中央署への呼びかけだった。
〈日比谷線の八丁堀の駅、事務室までお願いします。病人2名、気持ちが悪くなったもの2名がいるそうです。事件事故等やもしれませんが詳細判然としません〉
この時点では病人が発生したというだけ。ただ、直後から周辺の駅で急病人が出ているとの知らせが相次ぐ。同じ日比谷線の茅場町駅、築地駅と被害は拡大した。
そして、8時24分、警視庁本部が現場の警察官へ築地駅の状況を伝える中に、ある言葉が登場する。
〈日比谷線の築地駅現在電車が止まっている模様ですが。車両の中にガソリンをまかれた云々の内容です。特にG事案等に関係ないか最優先で調査せよ〉
その直後、神谷町駅での急病人を伝える無線でもその言葉、「G事案」が使われた。 耳慣れない「G事案」という用語。早速当時無線を聞いていたA氏にこの意味を聞いてみよう。
▽A氏の話(1)
ゲリラ事件で都庁東門そばの道路に落下した迫撃弾の跡を調べる捜査員=1990年11月12日
「G事案というのは、過激派によるゲリラ事件を示す言葉。自分も30年前のこの日、リモコン室の無線でこの表現を耳にした覚えがある」
そして当時自らが受けた印象をこう語った。 「それまで首都圏でのゲリラと言えばロケット弾や爆発物が主流だった。ただ、地下鉄でロケット弾を飛ばすのは考えにくい。過激派が新しい手法で何かを仕掛けてきたのかと思った」
地下鉄サリン事件が起きたのは1995年。2001年のアメリカの同時多発テロ以前で、まだテロという言葉は浸透していなかった。 「この時代、他にこうした事件を表現できる言葉は少なかった。『ゲリラ』は当時最も警察官のアンテナを刺激する表現。各署の警察官が警戒心を高める結果になった」
▽警戒態勢を発令
築地駅
8時30分ごろの無線から、築地駅そばにある築地本願寺が登場する。駅構内から逃げ出したり救出されたりした人が一時収容された場所だ。駅出口から近く、広い境内に多くの人が運ばれた。 並行するようにして、少しずつ事件の状況が明らかになり始める。
〈車内に煙が充満した〉 〈煙で目が見えず、苦しがっている人がいる〉
警視庁本部への報告内容が次々と現場の警察官に共有された。
▽A氏の話(2)
警視庁本部
8時30分の警視庁本部からの無線はこう伝えている。
〈日比谷線の一連の事案につき、築地3丁目15番1号中心の5キロ圏警戒態勢を発令する〉
築地3丁目15番1号は築地本願寺の住所だ。
A氏はこう指摘する。「ゲリラ事件の時には警戒態勢を取るのは珍しくない。ただ、通常は容疑者の逃走を想定してもっと広い範囲にする」 この無線では範囲を5キロにしている。この意味は何だろうか。 「ゲリラの言葉を使いながらも、まずは被害者救助が最優先と考えて範囲を絞ったのではないか」 発生直後は警視庁にとって五里霧中とも言える状況。松本サリン事件が前年に起きていたが、すぐに「サリン」を想像できる状況でもなかった。
▽増え続ける被害者、原因の特定は
神谷町駅
8時30分を過ぎると、各駅に臨場した警察官から次々に被害の報告が寄せられた。 神谷町駅で被害を訴える人の数を伝える無線は8時37分。 〈薬品の臭いあり。現在23名、気分が悪いということでホーム上、徐々に上の方に誘導中〉
築地駅からの報告はさらに多かった。 〈日比谷線の築地駅ですが、中毒患者にあっては約50名 男女の割合については25:25〉
さらに、小伝馬町の駅からも報告が入る。 〈3、40人が倒れている状況 なお脈のないものも若干あり〉 警視庁本部はこう聞き返した。 〈3、4名倒れている状況 脈がない者もいる これでよろしいか〉 現場の警察官はあらためて伝えた。 〈倒れている者にあっては3、40名〉 被害の規模は拡大の一途をたどった。
神谷町駅
一方、8時35分、中央署の署員から警視庁本部に向けた無線で、事件の原因がおぼろげながら見え始める。
〈茅場町駅において、車内に置いてあった新聞紙に包まれた、濁った液体から相当の悪臭がしたという言動があります。断片的な情報です〉
さらに、8時45分ごろ、別の報告は次のような内容だった。
〈茅場町もしくは小伝馬町駅で、液体、これを車外に蹴り出した模様。よって八丁堀もしくは小伝馬町駅にこの液体が入った物体があると思量されます〉
その後、この物体を何者かが車内に落としたとの証言が寄せられる。一気に事件の様相が濃くなった。 ただ、電車内にあった不審物の情報は一時錯綜する。複数の場所から、食い違う証言が寄せられたためだ。 公開された無線では、霞ケ関駅で駅長室に運び込まれ、完全密封の金庫内に保管されていたことが判明している。
▽A氏の話(3)
霞ケ関駅
8時54分、警視庁の無線は全体にこう呼びかけている
〈現在時からPS(警察署)に保管中の防毒マスクを至急現場に派遣。地下鉄の中で調査に当たる者等は防毒マスクを使用、事故防止留意を願いたい〉
A氏はこの無線内容を踏まえ、次のように話す。 「事件発生を覚知してから約30分、雲をつかむような状況からようやく毒ガスではないかという見通しが立った」 その上で、こう推測する。「マスクの配備は警察官の安全だけではなく、最終的に断定できないまでも毒ガス事案だというメッセージを発しているように感じる」
警視庁が公開した無線は9時30分まで。各駅での被害状況を聞き取って整理するところで終わっていた。このあと11時過ぎに警視庁の捜査一課長が記者会見を開き、「毒物はサリンの可能性が高い」と発表した。
最後に、A氏はこう付け加えた。「無線の指示一つで、事件捜査の方向性が決まってしまう。当時警視庁が無線の指示でどう動いたのか、われわれも学ぶ必要がある」

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