サリンを吸い、寝たきりになった妹は兄に謝った「迷惑かけてごめん」 励まし続けた25年の闘病生活、男性が地下鉄サリン事件30年に思うこと

あの日は、兄の子どもにランドセルを買ってあげた翌日だった。朝、地下鉄に乗ったのは偶然だ。勤務先のスーパーの研修があり、普段とは違う場所に向かっていた。浅川幸子さんはそこで、地下鉄サリン事件に遭った。 サリンを吸い寝たきりになった幸子さんは、兄の一雄さんに言った。「お兄ちゃん、迷惑かけてごめん」。手足の自由を失い、視覚や言語に重い障害が残っても、やりたいことを聞かれれば不自由な口で「リハビリ」と答え、闘病を続けた。 幸子さんは事件から25年目の2020年3月に、56歳で亡くなった。それから5年がたった。一雄さんは最期までひたむきに生きた妹を思い、こう願う。「1年に1回でいいから、事件について考える機会を持ってほしい」(共同通信=高野舞、酒井沙知子)
▽「生きているのが奇跡」と宣告
地下鉄サリン事件に遭う前の浅川幸子さん(浅川一雄さん提供)
幸子さんは中学卒業後、早く手に職をつけて家計を助けようと専門学校に進学した。両親の面倒を見るため、遠方での縁談は断るほど家族思いだった。おいとめいにあたる一雄さんの子どもをかわいがり、事件前日には小学校に入る一雄さんの長男(36)にランドセルを買ったばかりだった。
1995年3月20日、営団地下鉄(現東京メトロ)丸ノ内線の車内でサリンを吸い、意識不明の重体になった。幸子さんは一命を取り留めたものの、医師の宣告は「生涯、寝たきりだろう」。母は「奇跡は起きないのですか」と食い下がったが、医師は「生きているのが奇跡です」と言うのみだった。
幸子さんへの思いを話す浅川一雄さん
「迷惑かけてごめん」。意識が戻った幸子さんが入院した頃、一雄さんは幸子さんに言われたことが忘れられない。発語が不自由だったのに、その一言だけは明瞭に聞き取れた。「そんなことない」と打ち消したが、一雄さん自身もショックを受けた。落ち込んでいたら家族みなが暗くなると感じ、「オウムのことなんか忘れて楽しいことだけ考えよう」と幸子さんを励まし続けた。
幸子さん(左)に昼食を食べさせる浅川一雄さん=2009年11月、東京近郊
幸子さんは懸命のリハビリを重ね、約8年半の入院の末、一雄さんの家で暮らすまで回復した。一雄さん夫婦がヘルパーの手を借りながら介助。自室ではお気に入りのアイドルのCDをかけて体を揺らし、車いすで散歩へ出かけた。 2009年11月、一雄さんは車いすで幸子さんを連れ、ある場所へ赴いた。東京都千代田区の最高裁判所の法廷。そこでは、丸ノ内線にサリンをまいた広瀬健一元死刑囚=執行時(54)=への判決が言い渡された。一、二審に続いて死刑となり、幸子さんは記者会見で「大ばか」と声を絞り出した。
広瀬健一元死刑囚らへの最高裁判決を受け、記者会見する浅川一雄さん(手前から2人目)と幸子さん(手前)=2009年11月、東京・霞が関の司法記者クラブ
教団関係者の裁判は2018年に全て終わり、同じ年に松本智津夫元死刑囚=執行時(63)、教祖名麻原彰晃=や広瀬元死刑囚ら、幹部13人の死刑が執行された。 広瀬元死刑囚は早稲田大の大学院で学び、研究者として将来を嘱望されながら教団に出家。地下鉄に乗り、サリンの袋を破いた。家族からは謝罪の手紙が届き、一雄さんは「加害者の家族も苦労している」と感じた。松本元死刑囚だけの執行を望む気持ちもあった。
幸子さんに執行を報告すると「よかった」と口にしたという。
▽「頑張れ」とは言えなかった
幸子さんとの日々を思い、涙を浮かべる浅川一雄さん
一雄さん宅で暮らしていた幸子さんだったが、徐々に身体が衰え、2017年10月にけいれんを起こし入院。胃に穴を開け直接栄養を入れる胃ろうをつけ、痩せて言葉数が減っていった。 2020年初めから新型コロナウイルス禍が広がり、思うように面会できなくなった。最後に会ったのは、亡くなる一週間ほど前。少し前に一雄さんの長女(32)に赤ちゃんが生まれ、声を録音してほとんど目の見えない幸子さんに聞かせた。幸子さんは大きく体を動かし、興奮した様子。一雄さんは「うれしかったと思う」と振り返る。その後体調が急変し、2020年3月10日、56歳で息を引き取った。死因は「サリン中毒による低酸素脳症」だった。
一雄さんは幸子さんに「頑張れ」という言葉は使わなかった。他人に言われ「もう限界までやっているのに」と違和感を覚えたからだ。取材でやりたいことを問われると、いつも「リハビリ」と答えた幸子さん。亡くなった時には「よく頑張ってきたね。これから楽になって」と涙ながらに声をかけた。
病院から家族と長い時間を過ごした自宅に連れ帰った。通夜には長年支援してくれた弁護士や幸子さんの親友が訪れ、思い出話に花を咲かせた。「みんなから愛されていた。人に恵まれ、助けていただいた」。僧侶が戒名に人柄をしのばせる「優心」の文字を入れてくれた。一雄さんは「幸子を通して家族が一つになった。僕たちも力をもらっていたのかも」と涙を流した。
▽たとえテロに遭っても…
幸子さんが亡くなった後、記者会見で幸子さんの遺影を抱く浅川一雄さん=2020年3月、東京都内
一雄さんは事件後しばらく取材を受けても、匿名にしてきた。しかし、幸子さんの介護を続けるうち、金銭面や心身の負担を感じ、被害が続いていることを忘れてほしくないと、2005年ごろから幸子さんや自身の名前を明かし取材に応じるようになった。
事件後、どんな福祉のサポートが受けられるのかといった情報が得られず、金銭的負担も重く、苦労した。仕事と幸子さんの世話との両立に精いっぱいで、ずっと泣いていた両親の心のケアもできなかった。「加害者は拘置所や刑務所で衣食住に困らない。被害者や被害者家族にも、経済面を含めたサポートができるシステムが必要だ」と力を込める。
幸子さん(左から3人目)との家族写真を手にする浅川一雄さん
事件から30年。一雄さんの孫は4人になった。最近、事件の記憶が若い世代を中心に薄れてきたと感じ、犯罪被害者を支える重要性を伝えたいと望んでいる。地下鉄サリン事件のようなテロは「人を困らせ要求を通そうとする行為」だとみる。「困る人がいなくなればやる理由がなくなる。たとえテロに遭っても、直後から被害者や家族が普通に生活できるように、自治体などがサポートしてほしい」と訴えた。
オウム真理教は「アレフ」と名前を変えた。被害者側はアレフに、未払いの賠償金約10億円を払うよう求めるが、アレフは応じていない。そうした教団に、今なお入信する若者がいることも気がかりだ。事件直後、心の中で「神様仏様、幸子を助けて」とひたすら祈った。だから「何かにすがるのは悪いことではない」としながら「その前に身近な信頼できる人の意見を聞いて」と語る。 かつて教団では、多くの信者が家族の反対を押し切り入信した。妄信の末、家族を愛して生きてきた妹にこの上ない苦難を負わせた。一雄さんは「自分に注意をしてくれる人を大切にしてほしい。自分の意見を後押しだけする人の話を信用してはいけない」と忠告。「素直に人の話に耳を傾けて」とメッセージを送った。

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