滝つぼに、生後間もない弟が着ていた水色の着物が見えた。「洋一、洋一だ!」。思わず叫ぶと、普段は明るく社交的だった母が、恐ろしい形相でにらみつけてきた。
「大きな声を出すな。おまえも落とすぞ」
山形県鶴岡市の斎藤幸子さん(86)は今でもこの光景が頭に焼きついて離れない。
先の大戦末期、日ソ中立条約を破棄して旧ソ連が攻め込んできた満州(中国東北部)から逃げる時の出来事だ。おなかをすかせた幼子が泣けば敵に見つかるかもしれない。生き残るため、親たちは我が子を滝つぼに投げ落とした。
斎藤さんは1939年、山形県庄内地方出身の両親が入植した満州で生まれた。両親は、食料増産やソ連との国境強化などのために国が送り込んだ農業移民「満蒙開拓団」の一員だった。山形県からは、最も多かった長野県に次ぐ約1万7000人が入植した。
同じ庄内出身の約20戸が集まる永安屯(えいあんとん)山形村で、一家は農業に従事した。次女と三女も誕生し、広大な草原に建ち並ぶれんが造りの平屋で暮らした。農耕用の馬がいて、豚や鶏を飼い、近くに住んでいる中国人たちが朝作ったシューマイを届けてくれた。穏やかで平和な毎日だった。
そんな生活が暗転したのは、優しかった父が44年3月に軍に召集され戦死してからだった。戦況は悪化し、45年8月9日には村にソ連兵が攻め込んできた。
過酷な逃避行が始まった。生まれたばかりの弟を抱え、着の身着のままで隣近所と馬車に分乗し、隊列を組んで集落を離れた。降り注ぐ爆弾と四方八方からの集中砲火に遭い、長老の命令で集落に引き返したが、家は壊され家財道具は何も残っていなかった。
再び集落を出てコーリャン畑を走り抜けていた夜、爆撃は妹2人が乗っていた馬車の馬に命中した。翌朝になって傷だらけの2人を見つけたが、母と背負って逃げる途中で息を引き取った。小さな亡きがらを前に悲しんでいる時間はなく、そばに生えていた野菊を供えて手を合わせただけで列に戻った。
銃撃のたびに次々に人が倒れ、母に手を引っ張られておびただしい死体をかき分けるようにして進んだ。生まれたての赤ちゃんがか弱い声で泣いていたり、人が木の下で首をつっていたり、自爆して集団で死んでいたりするのを見た。「終わりのない地獄のようでした」
持っていた食料は底をつき、雑草や木の葉を食べ、山ブドウのつるをかんで空腹をしのいだ。水たまりの泥水をはいつくばってすすり、おなかを壊した。
母親たちは飢えで母乳が出なくなり、空腹で乳児が泣けば敵兵に見つかると周囲にとがめられた。その場にいた4人の母親全員が一斉に、我が子をどーんと滝つぼに投げた。「自分の子を。それが当たり前みたいに」。斎藤さんは涙ながらに当時を振り返る。
6人家族は、斎藤さんと母の2人だけになった。逃避行の途中、母に肩車してもらって深い川を渡った先で、ぬれた着物を石の上で乾かしていると、突然、ソ連兵が発砲しながら接近してきて母に銃を突きつけた。
両手を挙げた母は「この子だけは助けてくれ」と叫んで懇願した。ここで死ぬんだと覚悟したが、捕まって捕虜になった。何時間も歩かされ、貨物列車に押し込められて移動を繰り返し、ハルピンの収容所に連行された。
夜になるとソ連兵がしのびこんで女性を連れていくため、母は髪を丸刈りにし斎藤さんを離さずに抱いて夜を過ごした。
しばらくして2人は解放された。石炭を拾って売ったり、物乞いをしたりして生活した。精米所に働きに出かけた母は、こぼれたわずかなコメを拾い集めて持ち帰り、空き缶でご飯を炊いた。
ようやく引き揚げ船に乗れることになり、日本に戻ったのは46年9月。旧満州の村を脱出して1年余りが過ぎていた。満蒙開拓団約27万人のうち、約8万人が戦闘や集団自決、餓死などで犠牲になったとされる。
故郷の山形に戻っても、苦労は続いた。母の実家に身を寄せたが、大家族の中での肩身の狭い暮らしだった。母は身を粉にして働き、斎藤さんは小学校に通いながら家事や農作業を手伝った。
中学を卒業して地元神社に就職した後、25歳で結婚したが、子に恵まれなかった。引き揚げ途中の劣悪な栄養状態に伴う発育不全が原因と分かり、打ちのめされた。
斎藤さんは「遺骨も何もない家族を供養したい」という思いから、92年に遺族会が主催した墓参りに初めて参加し、中国に渡った。家があった場所には何もなく、そこの土を持って帰ると、母は抱きしめて泣き伏した。
引き揚げの体験を口にしたがらなかった母は「命を大切にし、引き揚げてきた意義をよく考えることだ」という言葉を遺した。決死の思いで自分を連れ帰り、再婚もせず一心に育ててくれた母の強さをかみしめる。
斎藤さんは毎朝欠かさず、仏壇にご飯と水を供え、「洋一、ごめん」と手を合わせている。親が我が子を手にかけざるを得なかった極限状態。「戦争は弱い者を犠牲にする。二度と繰り返さないで」と訴える。
今ある平和の大切さが身にしみているからこそ、体験した事実を語り継いでいくと心に決めている。【長南里香】