[戦後80年 昭和百年]次代<上>
84年前のきょう始まった太平洋戦争で焦土と化した日本の復興を支えたのは、戦争を体験した人たちだった。米国と戦うために武器を握った手で民生品を作り、日本再生の礎となった。
<帝国陸海軍は8日未明、西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり>
1941年12月8日、ラジオから臨時ニュースが流れた。海軍の空母部隊が、米ハワイ・真珠湾を奇襲攻撃したことが大々的に報じられた。
その陰で歴史から消された男がいた。「甲標的」と呼ばれる2人乗りの特殊潜航艇で出撃したが失敗し、「捕虜第一号」となった海軍少尉・酒巻和男だ。「捕虜になるなら死を選べ」と教育されていた時代、軍部は存在をひた隠しにした。
現在の徳島県阿波市で生まれ、40年8月、士官を育てる海軍兵学校を卒業。41年4月から甲標的を操る訓練を重ねた。
真珠湾攻撃の前夜、甲標的を取り付けた潜水艦5隻がハワイ近海に潜んでいた。酒巻ら10人は、2人1組となって5隻の甲標的に乗り込み、真珠湾に忍び寄った。しかし方位を測るジャイロコンパスが故障していた酒巻艇は現在地点を見失う。「ドドドーン」と敵の爆雷攻撃を受け、サンゴ礁に乗り上げた。不運に涙がこみ上げた。
艇を放棄し、部下の2等兵曹と海に飛び込む。「がんばれ、岸は近くだ」と叫んだ。波にもまれる中で離ればなれになり、意識は遠のいた。出撃した5隻は1隻も帰らなかった。
酒巻はハワイ・オアフ島の海岸に漂着し、米兵に両脇を抱えられ、意識を取り戻した。米将校に尋問されたときは「酒巻は捕虜となったが立派に死んだ。これだけ海軍省へ通知してくれれば結構」と訴え、処刑するよう懇願した。だが米軍はそうしなかった。
42年1月、徳島県の実家に日本海軍から「戦死」が伝えられた。弟の松原伸夫さん(92)(徳島市)は「両親は先祖代々の墓に毎日、祈りをささげていた」と振り返る。ところが3月には「生死不明、他言無用」と内容が変わる。直後、海軍は戦意高揚のため、甲標的で出撃した10人のうち、戦死した9人を「九軍神」とたたえ始めた。集合写真から酒巻を切り取り、いないものとした。
その頃、酒巻は収容所で新聞や辞書を与えられ、米国への理解を深めていた。
<米国人は民衆の声に重きを置き、多数決の結論が最も妥当だと考えている><複雑な諸外国事情を研究するため外国語修得が必要。真の世界人、二十世紀の日本人とならなければならない>。戦後公表した手記にはこう記した。
収容所のまとめ役にもなり、新参の捕虜に諭した。「死を急ぐのはかえって卑怯。価値ある死に方をしなくてはならない」
酒巻が帰郷したのは、敗戦から5か月後の46年1月。実家には「切腹してわびろ」といった手紙も届いた。47年3月に転機が訪れる。海軍兵学校の同期で後に直木賞作家となる豊田穣(1920~94年)から、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)側が「根性のある復員兵を探している」と聞き、入社した。
担当は若手の教育係。指導を受けた元社員らの記憶には「海外の会社と技術提携するのではなく、自力の技術で成長することが大切だ」との言葉が残った。生活指導の先生のように、服装にもうるさかった。人事や輸出に関する業務も担い、職歴を重ねた。
69年にブラジルの現地法人社長になり、14年間務めた。「国際化なしに日本の発展は望めない」と語り、視野を広く持つことの重要性を説いた。そして20世紀が終わる直前の99年、81歳で逝った。
酒巻は終戦直後に手記を書いてからは、体験を語ることはほとんどなかった。開戦80年を前にした2020年に手記が再出版された後、長男・潔さん(76)(愛知県豊田市)は父がつづった言葉に向かい合った。
小学生の頃、自分の名前の由来を尋ねると、「読んで字のごとし。潔し」とだけ告げられた。父の死後には、同じ艇で出撃し、戦死した部下の親族に会った。部下の名は稲垣清。自分の名と同じ読みだ。
潔さんはこう言う。「息子に『きよし』と名付け、部下の死を一生背負う覚悟を固めたのだろう。恥辱を受けても前を向き、日本の復興期を生き抜いた」