すべての原告を水俣病と認めた27日の大阪地裁判決は、理不尽な「線引き」に翻弄(ほんろう)される患者たちに救済の道を開いた。「この日を待ちわびていた」。心身の苦痛に耐えながら生活する被害者らは安堵(あんど)するとともに、国による厳格な救済範囲の早急な見直しを強く望んだ。
午後3時過ぎ、大阪地裁2階の大法廷。「原告はいずれも水俣病に罹患(りかん)している」。達野ゆき裁判長が国の賠償責任も認めた判決要旨を読み上げると、原告たちや弁護団はうなずきながら内容に耳を傾けた。閉廷後、満席になった傍聴席から一斉に拍手が起きた。
原告128人の一人として名を連ねた前田芳枝さん(74)=大阪府島本町=も法廷で裁判長の言葉を聞き漏らさないよう目を閉じ、その瞬間を迎えた。「やっと認められた」。うれしさやつらかった過去の記憶が交錯し、涙が止まらなかった。
前田さんは不知火(しらぬい)海を望む鹿児島県阿久根市の沿岸部から1キロほどの集落で生まれ育った。幼い頃から、魚介類をよく口にした。メチル水銀を含む廃水が流出した熊本県水俣市の行商から買い求めたものだった。
手足のしびれを自覚するようになったのは10歳の頃だ。小学校の運動会で走り出すとすぐ転び、段差がない場所でもつまずくことが増えた。症状に悩まされたが、理由は全く分からなかった。
15歳の時、就職をきっかけに大阪に移り住んだ。しかし、生活環境が変わっても症状は治まらない。夫と結婚し、子どもも授かったが、家族に満足に料理を作ることもできなかった。情けなさと悲しみが募る日々を過ごした。
転機になったのは2013年。兄から「昔から具合が悪いのであれば、病院を受診してみたらどうか」と声を掛けられた。間もなく、水俣病と診断された。
もちろん水俣病の存在は知っていたが、原因企業のチッソの工場があった熊本県の住人の話で自身とは無縁だと思い込んでいた。救済を求めて動き始めたが、09年に施行された水俣病被害者救済特別措置法(特措法)の申請期限は過ぎていた。前田さんの出身地は特措法の対象地域からもわずかに外れている。
途方に暮れ、すがる思いで「ノーモア・ミナマタ」2次訴訟に原告として加わった。大阪地裁で審理された大阪訴訟では22年9月、達野裁判長が自ら水俣市などに足を運び、不知火海の沿岸地域を視察していた。
この日の判決に大きな期待を寄せていたという前田さん。大阪市内で開かれた記者会見で、「若い頃から手が震える自分を恥ずかしく思い、周りに隠して生きてきた。裁判所が国の不当な線引きを認めたうえで、患者であると言ってくれて本当にうれしい」と語った。
水俣市出身で原告の松尾厚子さん(68)=愛知県春日井市=も会見に臨み、「同じように長い間苦しんでいるのに、患者と認められず救済の網から漏れている人がまだいる。各地の同種訴訟で、被害者全員が救済されることを願っています」と声を詰まらせた。
一連の訴訟は最初の提訴から10年が経過し、大阪訴訟ではこの間に原告10人が亡くなった。未認定患者は高齢化し、残された時間は少ない。熊本訴訟の園田昭人弁護団長は「原告の平均年齢は70歳を超える。行政は被害者が死ぬのを待つのか。早期の全面解決を図るべきだ」とコメントした。【安元久美子、鈴木拓也】