「部屋にいたら押し潰されてしまう!」30人で新年会をしていた家屋が倒壊、妻の兄は亡くなり…輪島市海士町自治会長が経験した壮絶すぎる能登半島地震

「押しつぶされてしまう!」。石川県輪島市の漁師、橋本拓栄さん(51)はとっさに家の窓を割って、外に飛び出した。追い掛けるようにして自宅が潰れる。
最大震度7を記録した能登半島地震。被害が大きかった奥能登でも輪島市の惨状は目を覆わんばかりだ。
発災から2カ月が経過するというのに、被害の全容はつかみ切れていない。2024年2月28日時点の石川県の集計では、輪島市の死者は102人(うち3人が災害関連死)。同市の住宅損壊は1万2548棟を数え、うち全壊が3318棟に及ぶ。ただ、この数字は発表のたびに増えている。輪島市の1月1日時点の人口は2万3118人、1万1357世帯であることを考えると、いかに多くの世帯が被災したことか。
あの日、人々の運命は一瞬で変わった。橋本さんもそうだった。
地震が起きたときは「また珠洲か」と思っていた
2024年1月1日、橋本さんの自宅では親類が集まって酒を酌み交わしていた。両親の兄妹家族、橋本さんの妹家族、従兄弟らの家族。子供から高齢者まで10家族で30人はいたという。
普段は両親、妻、一緒に底引き網の漁船に乗っている長男の5人暮らしだが、金沢市で就職した二男と三男も帰省して賑やかだった。
午後4時6分、地震が起きた。
輪島市は震度4。震源は隣の珠洲(すず)市で、最大震度は5強だったというニュース速報が流れた。
「また珠洲か」。橋本さんはそう思った。
奥能登では2020年12月以降、群発地震が起きていた。中でも珠洲市では大きな揺れが続いており、2022年6月19日には震度6弱、2023年5月5日には震度6強を記録した。後者の地震では珠洲市で1人が亡くなり、同市の住宅被害は1656棟に達した。
「珠洲は正月から大変だな」。口々にそう話しながら、また酒を飲み始める。テレビは「この地震による津波の心配はありません」と伝えていた。
親類が集まっていた2階がぺちゃんこに
それから4分後の午後4時10分、再び揺れが始まる。
次第に立っていられないほどの激しさになり、橋本さんは「このまま部屋にいたら、家が倒壊して押し潰されてしまう」と直感した。近くの窓はアルミの枠がぐにゃりと曲がりかけていた。そのガラスを叩き割って外へ飛び出す。と、同時に後ろで家が崩れた。
橋本さん宅は輪島市の漁師の家の多くがそうであるように3階建てだ。1階は倉庫を兼ねた車庫、2階と3階が住居になっている。このうち、親類が集まっていた2階がぺちゃんこに潰れた。
「皆が下敷きになった」。橋本さんは真っ青になった。が、完全には潰れていなかったようで、閉じ込められた屋内から次々とはい出してきた。橋本さんは下で子供を受け止めた。
全員が無事か確認すると、従兄弟の1人が見当たらなかった。一緒に底引き網漁をしている仲間だった。潰れた2階で柱とこたつの間に顔と肩が挟まれ、身動きが取れなくなっていた。
大津波警報の予想は5m 別の従兄弟らと役割分担をして行動
その時、橋本さんは港の方を見て驚いた。
自宅は港から50m強の場所にあり、一直線の道路の突き当たりだ。いつもなら岸壁に並んだ船が見通せる。ところが、操舵室の上に取り付けたアンテナしか見えなくなっていた。
「海面があんなに下がっているのか。ものすごい大津波が来るぞ!」。海を知る漁師だからこそ想像できた。実は地盤が隆起して海面が下がっていたせいもあったのだが、それが分かるのは後のことだ。この時は「隆起」など想像もできなかった。
揺れから12分後の午後4時22分、大津波警報が出た。「予想される津波の高さ」は「石川県能登」で5mとされた。
橋本さんの家は岸壁と同じ高さの地面に建っている。警報通りに津波が押し寄せたら、倒壊した家屋は屋根まで丸呑みにされかねなかった。
橋本さんの心は引き裂かれた。屋内に取り残された従兄弟を助け出さなければ命が失われてしまう。でも、子供や高齢者がいるのに逃げ遅れたら全員がやられる。日本海側は地震発生後の津波来襲が早く、輪島の漁師の間では震源が近ければ「数分で来る」というのが常識だった。
迷っている余裕はなかった。自身は親類を高台に誘導しようと決めた。従兄弟の救出には、別の従兄弟ら約3人が残った。とっさに役割分担して別行動に移れたのは、絆の深さがあるからだ。
「大きな津波が来る」と察知し、港を背に山へ逃げる
高台に逃げると言っても、窓から逃げ出したので、靴をはいている人はいなかった。ガラスが割れて散乱しているだろう道路を裸足では歩けない。近くの家から履物を「拝借」して全員に渡した。
橋本さんは日頃から「津波が来たら山に駆け上ろう」という心づもりをしていた。しかし、思ったようにはいかなかった。建物が道路に倒壊して、通れない箇所がある。大回りをして、道を探す。どこが通れるかは、見てみないと分からない。橋本さんの息子らが走り回って探索した。迂回に迂回を重ねたので、直線で200mしかない距離が500mにもなる。
気が焦って走りたくなるが、子供や高齢者がいた。「とにかくバラバラにならないようにと思いました」と橋本さんは語る。
途中で避難に難儀している高齢の女性を見かけた。すかさず、橋本さんの息子が背負う。
そうして大勢の人が避難している場所にたどり着いた。
一方、潰れた2階に従兄弟が取り残された現場。
港にいた若い漁師達が救助に加わっていた。
津波が予想されるような地震が起きると、漁師は接岸している船が転覆したりするのを避けるために沖へ出る。このため浜に走って来た漁師が何人もいた。午後4時6分の前震で駆けつけた漁師は船を出せたが、同10分の本震で港に向かった漁師には無理だった。既に港の底が見えるほど海水がなくなり、船を出せる状態ではなくなっていたのである。「大きな津波が来る」と察知して、港を背に逃げた。
運動公園の体育館に向かうが、道路の陥没でたどり着けず
その避難する途中で、若い漁師達が危険を顧みずに助けてくれたのだ。
ただ、人力では倒壊した家屋をどうすることもできなかった。
早く救出しなければ命が危ない。この時、自宅にチェーンソーがあることを思い出した従兄弟の息子がいた。駆け戻って、被災した倉庫から取り出し、倒壊した家を切り刻む。
こうして1時間強で助け出すことができ、「市立輪島病院に連れて行く」と連絡があった。
診察を受けた従兄弟は顔面と肩を骨折していたことが分かるが、救出が早かったせいか命に別状はなかった。翌朝、ヘリコプターで被害が少なかった県南の病院へ転送されることになる。
現場を高台に戻そう。避難した橋本さんらは、その後どう動いたのか。
この日の輪島の日没は午後4時44分。真っ暗になって、津波がどうなったかは分からなかった。市街地では火事が起きた。橋本さんの家や避難した場所からは川の対岸だったが、いつまでも真冬の野外にいるわけにはいかない。かといって、倒壊した家には帰れない。
とりあえず運動公園の体育館に車で避難することにした。市街地の奧の高台にある。
車で向かう途中、7階建てのビルが倒壊しているのが見えた。橋本さんは「俺のうちが潰れるはずだ」と思った。
体育館にはたどり着けなかった。陥没で道路がなくなっていたのだ。
やむを得ず、輪島病院の駐車場で車中泊をした。
妻の兄も潰れた家の下敷きに
夜が明けて、救出された従兄弟がヘリコプターで搬送される時、妻の兄の家族が病院にいると分かった。発災直後から携帯電話を何度掛けてもつながらず、心配していたのだ。通信回線事業者によってはつながりにくかったので、妻とは「そのせいかな」と話していた。
「妻の兄」の息子が「おじいちゃんが入院している。お父さんもそこにいて、今は起きていると思うよ」と言う。橋本さん夫妻は胸を撫で下ろした。
野戦病院化した院内を「妻の兄」がいるという一番奥のリハビリ室に向かう。中に入って愕然とした。遺体の安置所になっていたのだ。「妻の兄」は全身に毛布を掛けられて冷たくなっていた。
「妻の兄」の家は輪島市でも繁華街の河井町にある。
河井町は約200棟が燃えた大規模火災で全国に知られたが、実は建物の倒壊が激しい地区でもあった。「妻の兄」の家は1階が店舗、2階と3階が住宅になっていて、1階と2階が完全に潰れてしまったのだ。道路にはみ出して落下した3階が、まるで平屋建てのようになった。
「3人は同じ部屋にいたようです。お兄さんがかばったのか、息子は打撲で済みました。夜通しの作業で近所の人が助け出してくれたそうです。明け方の午前3時7分に病院に運ばれ、直後に死亡が確認されました」と、橋本さんは目を赤くして語る。
市内は壊滅状態で葬儀どころではなかった。市外に運び出せる状態でもない。遺体は輪島市内に設けられた安置所に移すしかなかった。
別の従兄弟夫妻の母親がヘリコプターで救出される
ただ、輪島から金沢市までゆっくりなら車で走れる道路があると分かった。
金沢市でも住宅の損壊や金沢城の石垣崩落が起きたが、奥能登と比べれば雲泥の差だ。多くの人が普段通りの生活を続けていた。
そこで橋本さんは、高齢の父母、息子らを、金沢へ向かう従兄弟に託して、夫妻だけ残った。「妻の兄」を残して離れるわけにはいかなかった。
だが、家が倒壊して寝泊まりする場所がない。このため、従兄弟の1人が紹介してくれたプレハブで過ごした。
ここには別の従兄弟夫妻も身を寄せた。母親が孤立集落に取り残されて、状況を見守る必要があったのだ。
こうして4人で寝泊まりする場所は確保できたが、上下水道が使えない。食料もない。そのため、従兄弟らが金沢から運んでくれた。
これら物資は4人が使う最低限の物を残して、窮乏している避難所などに届けた。
そうして発災から1週間が過ぎた。「別の従兄弟夫妻」の母親がヘリコプターで救出された。
あと少しで10日が経とうかという頃、「妻の兄」を葬儀社の車で金沢市へ運び出すことができた。
橋本さんはプレハブを閉めて、金沢へ移る。
「妻の兄」は金沢でも通夜や葬儀を行えず、火葬して遺骨を持ち帰っただけだった。悲しかったが、避難先ではどうすることもできない。
「伝統の海士町」が直面した400年で最大の危機
橋本さん夫妻は金沢市で働く二男と三男がそれぞれ借りた狭いアパートを行き来して過ごした。それから石川県が二次避難所に指定した旅館に身を寄せた。さらに金沢市内にアパートを見つけ、長男と3人で移った。
今は失業状態だ。輪島港の地盤が隆起して浅くなり、漁船が出せなくなってしまったのである。県がどのように港を再整備するかは決まっておらず、いつになったら漁を再開できるかも分からない。
輪島市の仮設住宅に入れるよう申し込みはしている。これも希望者があまりに多いので、いつ入居できるようになるかは不明だ。
当面は金沢市で仕事を探しながら、アパート暮らしを続けるしかないと考えている。
先の見通しが立たない。何から手をつけていいのかも分からない。
ただ、橋本さんには重要な仕事があった。
輪島市の「海士(あま)町」という自治会の会長なのである。
海士町は極めて特殊な“集落”だ。漁業を生業にする人々が江戸時代の初期、輪島に定着して、独自の文化を受け継いできた。市内の人々とは言葉も違う。つまり、輪島で400年近く暮らしながらも、輪島に染まり切っていない「奇跡の集落」なのである。
ところが、被災で肝心な漁ができず、住宅も損壊して避難先は様々だ。このままバラバラになってしまう恐れもある。
「伝統の海士町」をどう維持していくのか。
400年で最大の危機に直面したのである。
〈 能登半島地震で町の漁師150世帯がすべて失業状態に…約375年漁業で生計を立ててきた海士町は再生できるのか? 〉へ続く
(葉上 太郎)

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