川勝知事の「最悪の置き土産」が邪魔をする…知事交代でもリニア着工を進められないワケ

静岡県の川勝平太知事は5月9日、知事職を退任して、約15年間君臨した権力の座から下りる。新しい知事がすぐにリニアトンネル静岡工区の着工を認めると勘違いしている人が多いが、実際は、川勝知事が退職するからといって静岡県のリニア問題がすぐに解決する見込みはない。
川勝知事のまいた「厄介なタネ」が数多く残されてしまったからだ。
その1つは、川勝知事が「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」と主張したことである。その主張に対して、山梨県の長崎幸太郎知事がことし4月25日、「山梨県内の調査ボーリングを一刻も早く再開してほしい」とJR東海に強く要望した。川勝知事がいなくなるから、もうこの問題は解決したと思ったのかもしれない。
長崎知事の発言を受けて、JR東海の丹羽俊介社長は4月30日、「山梨県内の調査ボーリングを5月中に再開したい」と述べた。
ただ調査ボーリングが再開されたとしても、静岡県境の手前約300メートルまで進んで、ストップする。そこで静岡県が「待った」を掛けているからだ。そこからどうするのか、まだ全く何も決まっていない。
実際には、調査ボーリングだけで済む問題ではない。その後も、山梨県内のリニア工事を進めるためには、それ以上に厄介な問題を乗り越えなければならないのだ。
そもそも「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」の発端は、静岡県が2022年10月13日、リニア工事に関する新たな協議を求める文書をJR東海に送ったことである。
その文書には、「山梨県内のトンネル掘削で、距離的に離れていても、高圧の力が掛かり、静岡県内にある地下水を引っ張る懸念があるから、静岡県内の湧水への影響を回避しなければならない。ひいては、静岡県境へ向けた山梨県内のリニア工事をどの場所で止めるのかを決定する必要がある」とあった。
この問題を県の地質構造・水資源専門部会にかけて、科学的・工学的な議論を進めるため、山梨県内の工事をどの時点で止めるのがよいのか、JR東海に具体的な案を出すように求めていた。
2019年夏、JR東海の「全量戻し」の約束を根拠に、川勝知事は「水一滴も県外流出は許可できない」「県境付近の工事中に県外流出する湧水すべてを戻せ」と主張した。
つまり、静岡県の「水一滴」でも山梨県に引っ張られる可能性があるから、JR東海は山梨県内のリニア工事をどこで止めるか決めろ、というのだ。
この文書を受け取ったJR東海は困惑した。
10月31日に開かれた地質構造・水資源専門部会で、JR東海は「静岡県境へ向けた山梨県内の工事をどの場所で止めるのか」の議論を避けた。
「現在、静岡県境約920m地点まで山梨県内の掘削工事が進んでおり、その約100m先端部分まで水の発生などは確認されていない。締め固まった地質で安定している。断層帯は静岡県境の西側にあるので、県境まで掘り進めていく」などと、予定通り調査ボーリングを続けることを説明した。
理論上、トンネル掘削することで高圧の力が掛かり、トンネルに向けて地下水を引っ張ることはありうる。だから、JR東海も静岡県の要請を頭から否定できなかった。
しかし、そもそも山梨県内の工事に、静岡県の行政権限は及ばない。
日本地下水学会によれば、県境付近に限らず、地中深くの地下水は絶えず動き、地下水脈がどのように流れているのかわからない、という。
県境付近の地下水に静岡県のものも山梨県のものもない。それなのに、「静岡県の地下水圏」があるとして、県境付近の地下水の所有権を主張したのである。
山梨県の掘削ストップの要求に強く反応したのは、長崎知事だった。「山梨県の話をするのに、知事にひと言もないのは遺憾だ」と遠回しながら、怒りの声を上げた。
川勝知事は、10月26日静岡市で開かれた関東地方知事会議で、長崎知事に直接、「あいさつ」した。それで、長崎知事も一定の理解を示していた。
ところが、2023年1月11日付静岡新聞インタビュー記事で、川勝知事は「山梨県内でJR東海による高速長尺先進ボーリング(調査ボーリング)を実施すれば、調査の名を借りた水抜き工事となる」と糾弾した上で、「もし、山梨県内で調査ボーリングを行えば、湧水の全量戻しは実質破綻する」と述べて、リニア工事ではなく、調査ボーリングをやめろと唱えたのだ。
インタビュー記事の大見出しは「JR東海 先進ボーリング実施 全量戻し『実質破綻』」となっていた。
まさに、トンネル掘削から「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」に舵を切ったのだ。
その後、川勝知事が「サイフォンの原理」を持ち出して、静岡県内の断層帯と山梨県内の断層帯が地下深くのところで交わるから、静岡県の湧水が山梨県へ引っ張られるなど頓珍漢な主張をした。
「サイフォンの原理」の誤りは認めたが、高圧水で静岡県の水が引っ張られるから、「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」との主張は取り下げなかった。
そのようなドタバタが続く中、森貴志副知事は5月11日、「静岡県が合意するまでは、リスク管理の観点から県境側へ約300メートルまでの区間を調査ボーリングによる削孔(さっこう)をしないことを要請する」とした意見書をJR東海に送った。
つまり、静岡県は正式に、県境手前約300メートルの断層帯付近で、「山梨県の調査ボーリングをやめろ」と求めたのだ。
これに怒ったのは、もう一方の当事者である長崎知事である。「山梨県の工事で出る水はすべて100%山梨県内の水だ」と断言した上で、「山梨県内のボーリング調査は進めてもらう。山梨県の問題は山梨県が責任をもって行う」などと強い調子で山梨県内の調査ボーリングを進めることを宣言した。
5月31日のリニア沿線都府県知事による建設促進期成同盟会に続いて、自民党リニア特別委員会で、長崎知事は「企業の正当な活動を行政が恣意的に止めることはできない。調査ボーリングは作業員の安全を守り、科学的事実を把握するために不可欠だ」と山梨県の立場を尊重するよう川勝知事に求めた。
さらに、もともと静岡県のリニア問題責任者を務めた難波喬司・静岡市長が5月24日の定例会見で、「調査ボーリングの穴は小さい。これが300メートル先まで水を引っ張るなんて考えられない」などと個人的な見解を述べた。
6月6日には、静岡市長としてではなく、静岡理工科大学大学院客員教授(工学博士)の立場で、「山梨県内の調査ボーリング」に特化した異例の会見を開いた。難波市長の計算では、調査ボーリングによる湧水量は、先進坑掘削と比較して、1.8%程度しかないと推定した。
難波市長は「県の推定は過大評価である」との見解を示し、「ボーリング調査は進めるべきだ」と川勝知事と真っ向から対立する姿勢を示した。
その翌日の6月7日開かれた地質構造・水資源専門部会で、森下祐一部会長、塩坂邦雄委員(地質)は県境300メートル付近の断層帯で、高圧水が出る可能性について言及した。
しかし、高圧水の可能性について、大石哲委員(水工学)は「コントロール可能」とし、丸井敦尚委員(地下水学)は「10年掛かってほんのわずかな水が出る程度でリニア工事のリスクにならない」と大量湧水を否定した。
となると、専門部会は山梨県内の調査ボーリングを科学的工学的に容認したことになる。
その後、いったんは、「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」が議論の俎上に上がることがなかった。それが、2024年2月5日になって、再び、リニア問題の中心テーマに躍り出た。
森副知事らが「リニア中央新幹線整備の環境影響に関するJR東海との『対話を要する事項』について」と題する記者会見を開いた。「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」を新たなJR東海との「対話」項目に取り上げたのだ。
川勝知事の辞意表明2カ月前であり、“知事御用達”と言える難癖だった。
そこには、「静岡県内の断層帯と山梨県内の断層が下で繋がっている可能性があることから、山梨県側からのボーリングによる健全な水循環へ影響する懸念」があるとして、「高速長尺先進ボーリングが、JR東海が慎重に削孔を進める県境から山梨県側へ約300メートル区間の地点に達するまでに、その懸念に対する対応について説明し、本県等との合意が必要である」としている。
どう考えても、「健全な水循環への影響の懸念」が何かわからない。県境付近の地下水を指して、「健全な水循環」があることなど理解できないからだ。
リニア環境影響評価準備書に対する知事意見書には、「山梨県における工事が本県を流れる富士川に及ぼす影響、長野県における工事が天竜川に及ぼす影響について示すこと」と記されている。
山梨県の工事は富士川への影響があると言っているのであり、大井川水系とは全く無関係としていた。そもそも、「静岡県の健全な水循環」など問題にしていなかった。
県境手前約300メートル西側に山梨県の断層帯があり、静岡県内の水が地下で引っ張られる可能性は否定できない。だから、「山梨県内の調査ボーリングをやめろ」を主張したのだ。
この懸念を議論するだけで、山梨県内のリニア工事には大きな影響が出ている。
2023年から2024年に掛けて、諸般の事情があり、山梨県内の調査ボーリングは県境手前約500メートルでストップしたままである。
だから、丹羽社長は4月30日の会見で、「5月中に調査ボーリングを再開したい」と述べた。現地点から約200メートル先へは進むことができる。
約300メートル手前で、静岡県はJR東海に「懸念」への「対応」を明らかするよう求め、議論が始まる。だから、地質構造・水資源専門部会が5月中に開催される可能性は高い。
しかし、そこで、県が本当に、山梨県内の調査ボーリングに待ったを掛けるのかどうか、リニア問題の大きな山場を迎えるはずである。
ただその先には、もっと面倒な問題が控えている。
もともとは、山梨県内のリニア工事をどこでストップさせるか議論するはずだった。ところが、川勝知事は問題を「調査ボーリング」に飛躍させてしまった。
考えてみればわかるが、調査ボーリングで静岡県の地下水が山梨県に引っ張られるとしたら、調査ボーリングよりも太い穴を開ける先進坑掘削がさらに大きな問題となってしまうのだ。
調査ボーリングの断面直径は約12センチから35センチだが、先進坑のトンネル幅は約7メートルとケタが全く違う。
難波市長は、調査ボーリングによる湧水量は、先進坑掘削に比較して、1.8%程度しかないから「調査ボーリングを進めるべきだ」と発言した。
この発言を逆から考えれば、先進坑掘削で出る湧水は膨大な量となるから、「先進坑掘削はどこでとめるか考えるべき」となってしまう。
本坑であるリニアトンネルの幅は約14メートルもあり、本坑掘削では先進坑掘削とは比べられないほどの大量の湧水量が予想される。となると、大量の湧水が山梨県側に引っ張られるかもしれない。
「静岡県の地下水はどんどん抜けてしまう」(森下部会長)が現実になる恐れもある。これでは山梨県内のトンネル工事はできないことになる。
まずは、地質構造・水資源専門部会が開かれ、調査ボーリングについて、JR東海からの回答を基に協議することになる。
そのあと、山梨県の先進坑、本坑でも協議するとなれば、いつまでたっても掘削ができないことになる。まさに、川勝知事の最悪の「置き土産」である。
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(ジャーナリスト 小林 一哉)

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