(前編から続く)
――中国の海洋進出に伴い、対峙する海上保安庁に対しても注目が高まっています。その一方で、海保にまつわる真偽不確かな情報や、まことしやかな論評も目につくようになりました。
【奥島】注目していただけることはもちろんとてもありがたいのですが、間違った情報が広まってしまうと、国民に誤解が生じてしまいます。ですから、「まずはファクトをしっかり見てください」、と。
実はこうした場面が多々あります。例えば、海上保安庁の成り立ちからしても、時に全く間違った解説が流布されています。
その代表的なものが、海上保安庁は軍事活動を行わない、という海上保安庁法第25条は「日本弱体化を狙うソ連がねじ込んだ一文だ」というもので、これは全くの間違いです。
海上保安庁は1948年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下で発足しました。暗黒の海と化した日本周辺の海の治安を取り戻すこと、特に朝鮮半島からコレラの流入阻止は喫緊の課題でした。
こうして誕生したのが、アメリカのコーストガード(沿岸警備隊)をモデルにした海上保安庁です。
戦後、日本には洋上の取り締まりを行う機関がなくなってしまったので、まさに無法地帯。
密輸船や密航船が横行し、コレラを防ぐことなどできる状況ではありませんでしたし、船内賭博、密漁船や海賊船が現れるなど悪質犯罪の跳梁する舞台ともいえる状況でしたから、これらに対処する機関が必要だったのです。
しかしGHQの中でも、海軍の復活を懸念する根強い反対があって大激論となりましたし、対日理事会や極東委員会でも各国から同様の懸念が表明されました。
これを抑えるために海上保安庁の人員や装備などに大幅な制限を設けたほか、非軍事を明示した海上保安庁法第25条「海上保安庁又はその職員が軍隊として組織され、訓練され、又は軍隊の機能を営むことを認めるものとこれを解釈してはならない」との条文をあえて用意し、海上保安庁の設立を認めさせたのです。
「ソ連がねじ込んだ」というのは創作話としては面白いかもしれないけれど、事実ではありません。
――「海保法25条をソ連がねじ込んだ」と主張している人や、あるいはそうでなくても一部の人の間では「25条を撤廃して海保を軍隊にできるようにすべきだ、という主張もあります。
【奥島】そういう主張をする人は、「軍事機能を持たない非軍事のコーストガードである日本の海保はグローバルスタンダードから外れたガラパゴス組織だ。」というのですが、これも間違いです。
世界のコーストガードを見ると、軍事組織に属しているコーストガードより、非軍事組織に属しているコーストガードの方が多いのです。
特にアジアはそうで、むしろ軍組織の一部や軍系列の組織に位置付けているのは中国とインドくらいで、あとはほとんど非軍事組織に属しています。欧州でも軍事組織とは別組織にしているところが多いのです。
もちろん、「いざという時には軍の機能を担う」という国はありますが、それが世界の大勢かというと、これは「わからない」というのが実際のところです。
というのも、そうした規定がない国も多いからで、確かに、日本のように「軍事活動は行わない」と明記している国も少ないのですが、アメリカのように「軍事活動を行う」と明記している国も少ないのです。
多くの場合、その時になってみないと実際どうなるかはわからないと言うのが実態だろうと思います。まずはそうした事実関係を抑えてもらいたい。
そのうえで、では、海保もいざというときには軍隊の一部になるのか、防衛大臣の統制下に入るとはどういうことなのか。
海を舞台に有事が勃発すれば戦うのは海上自衛隊ですが、その時には海保も海自と連携しなければならないのは当然です。その時に軍隊にならなければ連携がうまくいかないというのが「軍隊化」を推す人の主な理由ですが、ここに論理的な説得性はないんですね。
そもそも海自と海保は任務が違うわけで、もし有事になれば海保は法執行機関として国民保護などの任務にあたります。
何より、相手の海軍が出てきた場合、海保が海自と同じように対峙することはできませんから、有事には海自は国防、海保は国民保護というようにお互いの能力を最も発揮できるそれぞれのスペシャリストである分野を担うべきなのです。そのためには、私は今のままのほうがいいと思います。
――「海保を軍事組織に」という意見は、中国の海保に当たる「海警」という組織が2018年に人民解放軍の武装警察部隊の配下に編入されてから、より強まっています。
【奥島】「海保も軍隊にならないと、中国海警に対処できなくなる」というのはもっともらしい話に聞こえるかもしれませんが、これもおかしな話なんです。
中国海警局が中央軍事委員会、つまり軍配下の組織となってからこの6年、海保は一度たりとも尖閣周辺で海警に後れを取ったことはありません。常に優位を保っています。
もちろん、中国海警の船は増えて大型化してきていますし、武装も強化されてきていますが、「相手が軍隊だから負けてしまう」というのは全くのナンセンスだと思います。ある時中国側の組織が「軍になった」からと言って、それだけで急に実態が変わるわけではありませんし、実際、急に強くなっているわけではありません。
例えば、中国海警の船が備えている最大の武器は76ミリ機関砲で、これは世界のコーストガードの中でもかなり大きいタイプです。一方、海保は40ミリ機関砲ですが、口径だけを比べて「中国のほうが強い、負けてしまう」ということではないのです。
いうまでもなく、撃ち合いになるような事態はなるべく避けたいと考えていますが、仮に撃ち合いになったとしても十分勝算はありますし、相手も「軍事組織になった」とはいってもロケットランチャーやミサイルを装備しているわけではありません。海保も海警も、実際の軍隊と比べれば小規模の同程度の武器しか持っていないんです。
ですから、中国と競り合うために軍隊にすべきだというのは全くナンセンス。むしろ、軍にすることによるマイナスのほうが大きい。国益を損なうことになります。
――その点は新著『知られざる海上保安庁 安全保障最前線』(ワニブックス)でも繰り返し述べられています。
【奥島】つまるところ、「餅は餅屋」なんです。各組織の得意分野を融合させることにより国家は最大のパフォーマンスが発揮できます。「軍隊を忌避している」とか「海上自衛隊と仲が悪いんだろう」とか揣摩臆測を並べる人もいるのですが、いずれも実態とはかけ離れています。
有事には、自衛隊がなすべき任務だけでなく、警察や海保のような法執行機関が対処しなければならない問題も次々に発生します。それを脇に置いて、「海自と行動を共にしろ」というのは本末転倒です。
また海上保安機関を設立し、育てるためアジアを中心とする海に接する国々から日本に学び求めてきています(前編参照)。軍ではない、法執行機関が持つ紛争回避のバッファ機能を持つことが、国益につながるのです。
一方で、海保と海自の連携は重要です。連携を図る上ではお互いの文化や「言語」を理解することが必要不可欠ですが、そのためには日ごろの交流……つまり食事会や飲み会ですが(笑)、これがお互いの理解を深めます。
私も海上自衛隊の幹部とはずいぶん交流を深めさせてもらいましたがこうした関係は今も続いています。幹部が交流を深めることで、現場にもいい影響があると思いますね。
――尖閣有事についてよく言われるケースとして「漁船に乗り込んだ海上民兵が尖閣に座礁したふりをして上陸し、占拠する」というシナリオがあります。こうしたシナリオは、実際に尖閣の状況をご存じの海保の立場から見ても危険性の高いものなのでしょうか。
【奥島】そうしたシナリオはよく議論になっていますよね。これも一見、もっともらしいんだけれど、よく考えると「上陸して、で、何をしたいの」という話です。確かにそういうことが無いとは言いませんが、中国が国家の意思として海上民兵を上陸させる目的は何なのかということです。
果たしてどのくらいの規模の海上民兵が上陸する想定なのかわかりませんが、周辺海域には門番のように海保の巡視船がいて、いざとなれば応援の船も来るわけです。海上保安官が何人も詰め掛けられるところへ民兵がやってきても、数人では占領は不可能で、ただ逮捕されるだけのことです。
そもそも尖閣諸島はどの島も「座礁を装って上陸」するには並大抵の技ではできないくらい厳しい環境があります。もちろん港などありませんし、砂浜もない。岩がごろごろしているか、崖になっているようなところが多い、まさに自然の要塞です。
「座礁を装う」ことに挑んでも、失敗して船が横転したら、乗組員は海に落ちてしまう。それを試すのはかなりリスクが高いし、運よく上陸できても、食料も水もありません。
拳銃をもって乗り込んでも制圧されてしまうし、それこそロケットランチャーなんて持っていたら、これは誰がどう見ても漁民ではないわけです。
国家意思をもって軍隊レベルの武器をもって入ってきたら、これはもう侵略行為に等しい。逮捕しようとした海上保安官に攻撃を仕掛けたら、これは中国側が侵略行為として大きな国際非難を浴びますから、単に上陸させるだけではやるメリットがない。
――これまでにも香港の活動家が上陸するという事例はありました。
【奥島】そうした事例では、活動家は逮捕されていますよね。われわれも海上民兵なのか普通の漁民なのかというのはある程度、スクリーニングできるのですが、逆に言えば中国という国家の意思を表した公船で来られると、沿岸国の管轄権から免除されているためにわれわれも逮捕できません。
しかしあくまで個人の活動として行っている漁船であれば逮捕できますし、公船であっても、船から離れて上陸したら単なる私人ですから、管轄権免除の規定は適用されません。不法入国者として逮捕されるまでです。
尖閣有事のシナリオやシミュレーションを策定する際に、何らかの起点が必要になるからこうしたアクシデントが想定されるのでしょうが、何のための上陸か想定しないと非現実的な想定になってしまいます。
海保に対しても同様ですが、間違った知識や想定からは間違った判断しか出てきません。海上保安庁に関しても、尖閣をめぐる厳しい状況についても、ぜひ正しい知識から論じてもらいたいですね。
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(第46代海上保安庁長官 奥島 高弘 インタビュー・構成=梶原麻衣子)