異国の地に骨うずめた日本人女性 韓国の写真家が撮る内鮮結婚の実相

日本が朝鮮半島を植民地としていた時代に、国の同化政策の下で朝鮮人男性と結婚し、終戦とともに韓国に渡った日本人女性たちがいた。その一部はさまざまな事情で日本への帰国を諦め、異国で余生を過ごした。韓国のドキュメンタリー写真家、金鐘旭(キムジョンウク)さん(64)はそうした女性たちの姿を20年にわたって撮り続けてきた。慰安婦問題を巡る反日感情などから韓国ではこれまで日の目を見る機会がなかった作品が今年、初めて日本で公開された。
「私の父と同世代の戦争の犠牲者。写真を見て皆さんも共感してくれたらうれしい」。6月、鹿児島市のギャラリーで開かれた「『ナザレ園』のハルモニたちを記憶する写真展」で、金さんが鑑賞に訪れた人たちに語りかけた。
金さんは2004年から韓国・慶州市にある社会福祉施設「慶州ナザレ園」に通い、そこで暮らす日本人女性たちを撮影してきた。金さんが「ハルモニ(おばあさん)」と慕う女性たちは、日韓併合(1910年)から終戦までの間に日本本土で朝鮮人男性と結婚し、戦後に夫と韓国に渡った。
朝鮮半島を植民地とした日本政府は「内鮮一体」(日本の内地と朝鮮は一体)を掲げ、朝鮮人を日本人に同化させる政策をとった。その手段として奨励したのが日本人と朝鮮人の「内鮮結婚」だった。旧内務省の資料などによると、その大半が朝鮮人男性と日本人女性の組み合わせだったとみられ、男性の多くは日本が戦時体制になった30年代以降、労働力として日本に徴用された人たちだった。
終戦とともに解放された朝鮮人男性たちは日本人女性を連れて帰国した。しかし、日本に対する現地の人々の反発は強く、女性たちは異国で息を潜めるように暮らした。夫が既に別の女性と結婚していたことが分かったり、連れ帰った日本人女性を一方的に放逐したりするケースも多かった。朝鮮戦争(50~53年)で夫を亡くした女性も多数いた。
慶州ナザレ園は、72年に茨城県の社会福祉法人「ナザレ園」と韓国の福祉事業家が設立した。望まざる事情で独りになった女性たちを支援して147人を日本に帰国させた一方、「帰っても頼れる人がいない」といった事情で帰国を諦めた女性たちを保護してきた。現在は90代の女性2人が暮らすが、既に多くが他界した。園の納骨堂には80人余りの遺骨が納められている。
金さんは、父親が戦中に日本の炭鉱で働いたことから日韓の歴史に関心があり、女性たちの写真をドキュメンタリーとして残そうと、44歳の時に園へ通い始めた。女性らは当初、韓国人である金さんを警戒して打ち解けようとしなかったが、足しげく通ううちに、喜んで迎えてくれるようになった。
金さんの心に残る女性の一人に、2015年に亡くなった米本登喜江さんがいる。山口県下関市出身で、戦時中に税務職員として朝鮮半島に渡り、現地の男性と職場結婚。猛反対した家族との縁を切る覚悟で戦後も残った。夫の死後も子や孫がいる韓国にとどまったが、郷愁は断ちがたく、最後の安息地として日本人女性が暮らす慶州ナザレ園に流れ着いた。
「私たちはやがて逝く。何か残したい」。そう言う米本さんに、金さんが「何か書いてはどうか」と勧めたところ、米本さんは自身が写った写真の裏面に詩や随筆をしたためた。苦難の人生を生き抜いてきた心持ちがつづられ、一部は写真の表面にまではみ出していた。
「苦しい時には詩が浮(うか)び 悲しい時には書きました 嬉(うれ)しい時には泣きながら 楽しい時には思いきり エアロビダンスに熱中し ピエロになってはねました これが私の処世術」「異国の空で幾星霜 でこぼこ路(みち)やぬかるみを けはしい山坂越えながら 守り続けた処世術 素直に歩けた運命も この処世術のおかげです」
「戦争の犠牲に韓国も日本もない」。そんな思いで金さんが撮りためてきた写真。08年ごろに公開を模索したが、韓国では「元慰安婦のハルモニがいるのに、なぜ日本人を」と拒まれ、実現しなかった。「当時は時期尚早だった」
鹿児島国際大の元教授、井上和枝さん(77)が23年、慶州ナザレ園を訪れ、金さんと知り合ったことがきっかけで、今回、井上さんが代表を務める市民グループ「鹿児島韓国研究会」が鹿児島市で写真展を開いた。
「ハルモニたちの心の内面を引き出すのが私の仕事」と自負する金さんの作品は、戦争に翻弄(ほんろう)されながら生き抜いた女性たちの姿を伝えている。「記録しなければ歴史の闇に埋もれてしまう人たちでした。弱い人たちを助けられるのは記録しかない。人類が発展していくには記録が大事なのです」【取違剛】

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