東京電力福島第一原子力発電所にたまった大量の「処理水」の海洋放出が8月24日に始まった。初回は17日間かけて7800トンを海に流す計画で、2023年度は4回の放出で3万1200トンを放出する。タンクに保管されている処理水の総量は134万トンもある上、日々汚染水は出続けており、海洋放出を続けてもなかなか減少しない。すべてが放出し終わるまでに30年以上かかるとされる。
原発内に残る核燃料デブリを冷やすために使われたり、デブリに触れた地下水などは「汚染水」として地上のタンクに保管され続けてきた。タンクの数は1000基を超え、敷地を埋め尽くして「満杯」が近づいていた。
汚染水は「ALPS(多核種除去設備)」によって核物質が基準値以下まで除去されているが、トリチウムだけは除去できないことから、これを基準値以下になるように大量の海水で薄めて流すこととしたわけだ。
薄めて海に流す処分方法は震災後早い段階から方向性が打ち出されていた。政府と東京電力は2015年に、福島県漁業協同組合連合会に対して、「関係者の理解なしには(処理水の)いかなる処分もしない」と約束していた。魚連は早くから海洋放出を恐れていたわけだ。だが、今回、放出に漕ぎ着けたのは、関係者の理解が得られたからか、というとそうではない。
政府が、関係者の理解を得るための「手順」を踏もうとしてきたのは確かだ。
国際原子力機関(IAEA)の専門家チームが7月に報告書をまとめ、処理水の放出が国際的な安全基準に合致していると結論づけた。このIAEAの報告書が、政府が海洋放出に踏み切る大きなきっかけになったのは間違いない。国際的にも認められた手法だというわけだ。もっとも、IAEAのラファエル・マリアーノ・グロッシ事務局長は、ロイターのインタビューで、「IAEAは(処理水放出の)計画の承認も推奨もしていない。計画が基準に合致していると判断した」と述べ、処理水放出の最終決定は日本政府が行うものだとゲタを預ける形になった。
このタイミングを逃しては海洋放出は実現できないと考えたのだろう。岸田首相は8月20日にALPSを視察、東電の幹部らとも面会した。さらに翌日には首相官邸で全国漁業協同組合連合会(全漁連)の坂本雅信会長と面会、「全責任を持って対応する」と発言して理解を求めた。
坂本会長は「漁業者、国民の理解を得られない処理水の放出に反対であることは、いささかも変わりない」と述べた。岸田首相は福島を訪れていながら、「関係者の理解なしにはいかなる処分もしない」と約束していたはずの福島県魚連とは面会せず、全漁連と会った。「形」を整えることが狙いで、とうてい関係者の理解を得たわけではなかった。
国内だけではない。諸外国の理解も十分に得られたとは言い難い。7月には欧州連合(EU)が福島産の水産物などに課していた輸入規制を完全に撤廃した。これも処理水放出の「好機」と判断したのだろう。だが、輸入規制を続けてきた韓国や中国は理解を示すどころか、むしろ強く反発した。中国の税関当局は、処理水放出の始まった8月24日から、日本を原産地とする水産物を全面禁輸にすると発表した。また、韓国は処理水放出に一定の理解を示したものの、水産物の輸入禁止は維持したままだ。結局、十分に「理解」を得ることができていなかったということだろう。
中国国内では塩を買い占める動きが広がっているほか、日本人学校へ石が投げ込まれたり、日本国内へ嫌がらせの電話が大量にかかってくるなど激しい反発が起きている。処理水の海洋放出は安全上問題ない、という理解は十分に広がっていなかったということだろう。
こうした中国の反発に、「大変驚いた。全く想定していなかった」と野村哲郎農林水産相が述べた。処理水放出を検討していた官邸が中国の反発を「想定外」だったとは思えないが、「理解」を得るより、何より「放出ありき」の方針だったのだろう。
国内外の反発を押し切ってでも海洋放出に踏み切った岸田内閣の実行力を評価する声もある。事故以降、安倍晋三内閣では支持率に響く「原発」問題などはほぼ棚上げ状態を続けてきた。国民を二分する議論になることが分かっていたからだろう。福島の処理水のタンクが1000基にも達したのは「決断」を先送りしてきたために他ならない。菅義偉内閣も同様の対応だったが、岸田内閣はそうした「懸案」に果敢に取り組んでいると見ることもできる。
本来はこうした難題に取り組むには、国民の「理解」を得ることが最優先なはずなのだが、岸田内閣はこれをしないまま、決断を急いでいるように見える。いわば「蛮勇」を奮っているのだ。
やはり懸案だった安全保障問題もそうだ。防衛費の大幅な増額を決めたが、その財源もいまだに不透明で、国民の理解を十分に得たとは言い難い。
もちろん、理解が得られないまま実行すれば、様々なマイナスが生じる。処理水の海洋放出にしても、安全性への国民の理解が十分に得られていなければ、福島産水産物などの売れ行きに大きな影響が出る。政府はそれを「風評被害」と言っているが、国民が十分に安全性を理解し、安心していないから売れ行きが落ちるのであって、事実無根の「風評」というわけではない。福島県魚連が「理解」を示さなかったのは、国民の理解が十分に得られていないと感じていたからだろう。
そんな「蛮勇」を糊塗(こと)するためか、「風評被害対策」に政府がカネを出すのだという。800億円の基金を活用して、漁業者の支援に資金拠出するというのだ。中国向け水産物輸出額は871億円なので、それを穴埋めできる金額だ。しかも、中国の輸入停止で損害が出た場合、東京電力が「必要かつ合理的な範囲で賠償する」という。売れなくなったものを政府の資金拠出で補うというのである。損が出ないのだから文句は言えないだろう、というところだろうか。
水産物の価格下落を防ごうとして財政を使う一方、物価上昇に対しても補助金を使っている。ガソリンや電気・ガス代金の価格抑制に動いているのだ。防衛費の増額では本来、増税で賄うのが筋だが、それでは国民は生活が苦しくなる国民は納得しない。ならば、財政支出で物価上昇を抑えて国民の生活を助けましょうと全てカネで解決するというのが、どうやら「岸田流」なのだ。国民の理解が得られにくい「蛮勇」のツケを財政支出というカネの力で賄っていると言っていい。
政府が価格をコントロールしようと市場に対峙(たいじ)しても、市場の力に抗うことは難しい。財政支出する財源は無限ではないから、いずれ国家が市場の力に敗北する。日銀が日本円を刷りまくって国債を買えば、財政破綻はしないという理屈を信奉する政治家も自民党内には少なからずいるが、円の総量が増えれば円の価値は下落していく。そうなると、輸入品の物価上昇は止まらない。漁業者を守ろうとしても、漁に出る船の燃料代が賄えなくなるだろう。
そんな価格コントロールをいつまでも続けられるのだろうか。処理水の放出は30年以上かかる。その間、漁業者に補助金を出し続けるのか。それとも数年もすれば処理水放出に国民が慣れて、福島産の水産物も元のように売れるようになると考えているのだろうか。
もちろん、処理水の放出以外に問題を処理する方法がない、という現実もある。トリチウムを取り除く技術は十分に確立されていないからだ。だとすると、トリチウムが残った処理水を放出することの安全性を徹底的に説明し、国内外の人々に理解を深めてもらう他ない。取った魚にトリチウムが残留していないか、科学的な分析を進めて、情報を徹底的に開示していくしかないだろう。
その際、「問題ない」ことを証明するために調査すると、検査にバイアスがかかったり、数字に恣意性が働いたりする可能性がある。万が一にも調査で不正などが発覚すれば、それこそ信頼は地に落ちる。純粋に科学的に数値を開示し、国民の安心を勝ち取っていくしか方法はない。
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(経済ジャーナリスト 磯山 友幸)