〈 「ウィンウィンでしょ」「どうせ立ちんぼだろうが」20代の若者から60代くらいまで…歌舞伎町で買春する男たちの“素顔”とは 〉から続く
「ローランドに会いに行こう」
友達との会話の中での“その場のノリ”がきっかけで、歌舞伎町のホストクラブにハマった女性レイ。彼女が初めて売春をしたのは14歳のときのことだった。地元を離れ、歌舞伎町でネットカフェ暮らしを続ける彼女は自身の現状をどのように捉えているのか。
毎日新聞社会部記者の春増翔太の取材で、彼女は“意外”とも思える“やりたいこと”を明かした。ここでは、同氏の著書 『ルポ 歌舞伎町の路上売春』 (ちくま新書)の一部を抜粋し、レイの思いに迫る。
*記事に登場する「カタカナ」表記の名前は仮名です(ローランドを除く)
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「愛を探しに」
歌舞伎町に来たときから、レイは探していたものがある。「愛を探しに来たの。大真面目に。ホストクラブに行けばあると思ってた」
それは、生い立ちゆえに抱いた思いだった。ホストクラブのことを知ったのは、もう少しで18歳になるという時、一人暮らしを始めて間もない頃だ。生まれて初めてスマホを手にし、自分が知らない世界を次々に知った。SNSにあふれる夜の街の様子は新鮮だった。ホストクラブの紹介サイトを見て興味を持ち、家から近い繁華街にある店に行った。着飾った若い男の子が酒を飲み干す姿を見て、「これが本当の大人の世界なんだ」と思った。そこで歌舞伎町を知り、もっと憧れた。
「ローランドに会いに行こう」と言ったのは、その場のノリだっただろう。会えなくても、がっかりしなかった。歌舞伎町は、「こんなに自由な場所があるんだ」と思うほど、楽しい場所だった。誰に気兼ねすることなく酒が飲めたし、タバコも吸えた。
それまでの生活は、常に施設が設けた規則の中にあった。着るものも、食事や寝る時間も決められていた。門限もあった。最後に入っていた自立支援施設では、毎月の小遣いは1000円だった。外出制限があったから、使う場所はほとんどなく、施設内で画用紙を買うくらいだった。
それが一変した。「誰にも何も言われないで、好きなときに寝て、好きなときに食べてよかった」
レイは規則にうんざりしていたが、それだけでなく、身近な大人たちにもささやかな反発心があった。ところが、歌舞伎町に来てからは、規則も大人の存在もなくなった。「同い年くらいの子たちだけで集まって、「生きてる」っていう感じがした」。手放せなくなった睡眠薬と向精神薬も、いつしか飲まなくなっていた。その代わり酒を飲み、タバコを吸った。生活保護の受給は続いていたから、口座には毎月7万~8万円が振り込まれた。
「歌舞伎(町)って、常に誰かしらいるじゃないですか。その光景もよかった。落ち着くっていうのかな。それだけ人がいれば、誰か自分を愛してくれる人がいると思えるんですよね」
トー横の仲間たちは、いたいときに一緒にいて、遊び、嫌になれば離れればよかった。万引きをして警察に捕まったり、家に帰ったりで、周囲からは顔なじみが減っていったが、気にならなかった。
規則から自由になったレイは、日々したいと思うことをして過ごすようになった。
ほとんど毎日のように、別のホストクラブへと足を運んだ。ホストクラブでは、初めて入店した場合は「初回」と言って、料金がほとんどかからない。せいぜい数千円か無料、中には現金をくれる店まである。レイは、多い時には1日で数軒はしごをし、初回で40軒近いホストクラブへ行った。
安く遊びたかったわけではない。「本当にいいホストさんを探していた。何の見返りも求めず、愛をくれるような人を」。だから、初回で訪ねた店でこれはと思うホストに出会うと、その後、何度か指名して行ってみた。「でも何か違ったんですよ」
ホストクラブに通うために売春をした。区役所通りにいつもいる外国人から紹介されたソープランドで働き、茨城や埼玉、福島の風俗店へ出稼ぎにも行った。10日間行けば50万円は手にできた。大久保公園周辺での路上売春は、トー横広場で誰かから「あそこに立つと稼げるらしいよ」と聞いて知った。歌舞伎町に来て1週間後には立ち始めた。風俗店と路上の両方で収入を得た。すべてホストクラブに注ぎ込んだ。
「ホスクラ行って寝て、公園で立ってソープ行って。その繰り返し。全然寝てない。でもホスクラにいても、気になるホストがいなければ1人でずっとスマホ見てた。実はそれが一番休まる時間だった」
寝泊まりはずっとネットカフェだった。口にするのは菓子か酒。タバコは1日に2箱吸った。
ホストめぐりを始めて3カ月目、あるホストと出会う。年上の34歳だった。押しが強くなく、寄り添うように接してくれた。「大人の振る舞い」に惚れた。そして、また精神のバランスを崩した。
「出会えたのはよかったんだけど、今度は他の客に嫉妬したり、もっと店に通って支えてあげなきゃと思ったりして。お金がないのもストレスでした。彼も「好き」とか「一緒になれたらいい」とか言ってくれるし、私もずっと会いたい会いたいとばかり考えて。頭の中はそれだけでした」
向精神薬も睡眠薬も、規定の量より多く飲むようになっていった。
「病気をきちんと治したい」
レスキュー・ハブの女性ボランティアから、「困っていることあったら、言ってね」と声をかけられたのは、そんな時だった。精神のバランスを崩していることはうっすらと自覚していたし、ホストクラブの売り掛けもあった。困っていた。
歌舞伎町に来るずっと前からだが、レイは時々、記憶をなくす。気づくと知らない場所にいて、どうやってそこに来たのか全く覚えていない。美容室に行った覚えもないのに、髪が短くなり色も変わっている。酒も飲んでいないのに、そんなことが時々あった。
「別人格がいるんです」。ラインに残る友人とのやり取りから、自分が男性として振る舞っていたことに後で気づく。違う名前を名乗り、彼氏としてメッセージを送っていた。そのことは全く覚えていない。友人は、レイの別人格だと知ったうえで、やり取りを続けてくれているという。
レイは別人格を受け入れていたが、精神的な不安定さと記憶喪失は精神疾患によるもので、治療した方がいいと思っていた。体を売ること自体は慣れきっていたが、昼職に就きたかった。
坂本さんは、レイから相談を受ける少し前、新宿区から受給した50万円の補助金で、1Kのマンションの一室を借りてシェルターを開設していた。そこにレイを迎え入れることにした。
自分だけの空間で寝泊まりできるようになり、レイの精神状態は少しずつ落ち着いた。手荷物一つで歌舞伎町に来た時から持っていたクマのぬいぐるみ「ナナミ」をベッドに置いて横になると、心からホッとしたという。「楽しいと思ってやってたけど、やっぱり気が張っていたのかもしれないです。酒やタバコに逃げていたのかも」。トー横広場にいた時、何でも言い合える友人はいなかった。「今は坂本さんに何でも言えるんです。それもすごく大きいかも」
シェルターに入って数カ月がたち、レイは坂本さんに「病気をきちんと治したいです」と言った。
「歌舞伎町に来て、『人から見られて、憧れられる仕事に就きたい』って思うようになったんですよ。接客業かな。キャバクラでもいいけど、アクセサリーとかコスメ関係とか。そのためには自分自身を磨かなきゃって思ったし、まず病気を治してからかなって」
いつかは支援する側に
歌舞伎町に来て最初の冬を越し、東京に春一番が吹いた頃、レイはホストクラブには行かなくなっていた。タバコは相変わらず手放せなかったし、飲みにも行った。でも、路上に立つのはやめていた。
「今年、20歳になるんです。誕生日が来たら、これまでいた施設を回りたいんですよね。養護施設と一時保護所。あと自立支援施設も。職員さんにお礼を言いたい。いた時の私はいい子じゃなかったけど、今はお世話になったと思ってるんで」
前向きな話を次々に口にした。一番最後の自立支援施設にいた16歳の時、精神障害があると認定を受け、障害者手帳を取得していた。等級は3段階の真ん中だった。「当時は自分に障害があるって認めたくなくて迷ったけど、その時に認めていたから、今になって治そうと思える」と言った。何の見返りも求めず、気にかけてくれる坂本さんは、レイの目標にもなった。
「今は無理だけど、いつか自分も坂本さんみたいに、誰かを支援する側になりたい。私みたいな精神障害があって夜職やってた子でも、頑張ればできるんだってことを発信もしたいと思うようになったんです」
レイは坂本さんや私にも丁寧語を交えて話す。相談室に来る子には、まずいない。人と話をするときは礼儀正しく、気も使う。渡り歩いた施設で身についたものかもしれない。坂本さんは、彼女が生活保護を受けている自治体の担当者に連絡し、治療が受けられる道を探った。担当者が、レイを受け入れる病院を探すことになった。
「彼女はきちんと人と接することができるし、自分の状況も自分なりに分かっているようですからね。まだ19歳ですけど、(売春を)やめて自分で生きていけると思います。だから歌舞伎町にズルズルいないで、早く病院も決まるといいんですけど」と坂本さんは言った。
(春増 翔太/Webオリジナル(外部転載))