飛鳥美人壁画で知られる高松塚古墳(奈良県明日香村)と、朱雀などが描かれたキトラ古墳(同)の発掘に大きく貢献した2人が相次いで亡くなった。上田俊和さん=11月8日死去、享年83=と、花井節二(せつじ)さん=12月1日死去、享年82。地元の歴史愛好家グループ「飛鳥古京顕彰会」のメンバーとして、飛鳥の歴史を在野の立場から掘り起こした2人が、時を同じくするように旅立った。
「飛鳥のシュリーマン」。トロイ遺跡(トルコ)を発見した19世紀のドイツ実業家、シュリーマンになぞらえ、そう呼ばれた飛鳥古京顕彰会。メンバーらは村内を歩き回り、記録にもない遺跡を見つけるなど研究者も一目置いた。
高松塚古墳の発掘は昭和47年。県立橿原考古学研究所と関西大が担当したが、陰の立役者といえる存在が顕彰会だった。
「高松塚古墳のそばでショウガを保管する穴を掘ったら四角い石が出てきた」。上田さんが村内の農家から聞きつけ、花井さんらと向かった。石は丁寧に加工され、石室などに関係するものに見えた。顕彰会の指導役だった村出身の考古学者、網干善教(よしのり)・関西大名誉教授(故人)に相談し、発掘に結びついた。
飛鳥美人壁画が発見されたのは47年3月21日。網干さんが石室内をのぞくと、青や赤の衣装を着た男女の人物が見えた。
「網干さんが『えらいこっちゃ、えらいこっちゃ』と慌てていた」と花井さんは生前、こう証言した。そして興奮気味の網干さんに呼ばれたという。「明日の朝になったら絵が落ちるかもしれん。証拠のために写真をすぐ撮ってくれ」。カメラが趣味だった花井さんは、発掘現場へ常に愛機を携えていたからだ。
「カラーフィルムをたまたま持ってきてたんや」。カラー写真が貴重な時代。壁画発見直後の石室内をカラーで写した唯一の写真だった。
「飛鳥美人は本当にきれいやった。あの場にいた人間でないと分からん」。高松塚壁画発見50年にあたる昨年3月、花井さんに取材した際、穏やかな笑みを浮かべた。「もう50年か。短かったなあ」。好きなたばこをくわえながらつぶやいた。
さらに、上田さんは昭和50年代初め、「高松塚に似た塚がある」と地元住民から話を聞き、キトラ古墳を発見。58年11月7日にはファイバースコープを使った調査で、玄武の壁画が見つかった。
ただ、いい思い出ばかりではなかった。高松塚壁画はカビなどで劣化し、石室と一緒に古墳から取り出された。キトラ壁画も(は)く落(らく)の危険があり石室からはぎ取られた。「高松塚には壁画も石室も何もなくなってしまった」と花井さん。両古墳の調査に携わった上田さんは生前、「21世紀の科学の力でも、壁画は古墳の中では守れなかった」と悔しさをにじませた。
上田さんが息を引き取ったのは今年11月8日。キトラ壁画発見から40年の翌日だった。顕彰会の関武さん(89)は「2人が続くように亡くなるとは。村を歩き回って遺跡を探すのが楽しかった。あの頃はみんな若かった」と声を落とした。(小畑三秋)
高松塚、キトラ両古墳を調査した猪熊兼勝・京都橘大名誉教授の話「高松塚壁画が見つかったとき、学界では極彩色壁画の古墳はこれ以外にないともいわれたが、顕彰会の執念でキトラ壁画が見つかった。研究者の知らない遺跡を次々と見つけ出して私たちを驚かせた。こうした積み重ねが、多くの人を魅了する現在の飛鳥につながったと思う」
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■高松塚古墳とキトラ古墳 いずれも7世紀末~8世紀初めの築造。高松塚古墳は直径約23メートルの円墳で、石室の壁には青龍や玄武(げんぶ)などの四神、飛鳥美人と呼ばれる女子像、男子像が極彩色で描かれていた。同古墳の南約1キロにあるキトラ古墳は直径約14メートルの円墳。四神のほか十二支の顔をもつ獣頭人身像や星座を配した精巧な天文図があった一方、高松塚のような人物壁画はなかった。両古墳の被葬者には、天武天皇の皇子や高級官僚などが挙げられている。