被災地で発揮、助け合い「えー」(結)の精神とは 能登半島地震

石川・能登半島の被災地は満身創痍(そうい)の様相だ。元日の最大震度7の揺れで、石川県輪島市を中心に死者は200人以上に達し、行方不明者の捜索が続いている。半島中部の七尾市でも5人の犠牲者が出ており、余震のたびに黒く艶のある能登瓦が屋根からはがれ落ち、道路の亀裂が幅を広げていた。ある集落では、住民たちが救援や支援の手が届かない中、お互いに助け合う古くからの知恵「えー」(結)の精神で、危機を乗り切ろうとしていた。【高尾具成】
2日夜に関西を発ち、3日未明、車で七尾市に入った。車中泊をしている被災者が少なくない。夜が明けると被害の深刻さが目に飛び込んでくる。家屋の被害だけでなく、各所の道路には亀裂が入り、特に橋とのつなぎ目には大きな段差が生じていた。当初、輪島市や珠洲(すず)市などのある奥能登を目指していたが、道路事情から難しいと判断し、七尾市にとどまり、取材を始めた。
七尾市中島町小牧(おまき)地区では、住民が主要幹線道路の国道249号上で、亀裂や陥没があった場所の隙間(すきま)に、土砂を入れて整備し、交通整理をしていた。奥能登に向かう消防や自衛隊などの緊急車両が、少しでも早く到着できるようにと、自主的に判断した作業だった。
地区町会長の赤坂達也さん(64)は、かつて土木建設業をしていた。救援物資も滞る状況下、公的支援を待っていては進まないと、地区内で技術を持つ職人らの手を借りて始めた。「今は自分たちや被災地のためにできることからやらんと、どうにもならんからね」。赤坂さんの自宅も大きな被害を受けたが、道路整備のほか、地区住民の避難生活を向上させようと避難所運営に奔走し、地震発生後は自宅には戻っていない。
発生1時間以内に安否確認
同地区では約80世帯約200人が暮らす。大半の家が被災したが、地震発生から1時間以内でほぼ全員の安否を確認したという。大半の住宅が余震で倒壊する危険性があり、避難所である公民館「中島地区コミュニティセンター西岸分館」に集まるように促し、高齢者を中心に約50人が身を寄せていた。
私が訪ねた時、地区内の電気や水、ガス、通信が止まっていたが、公民館では地元の建設業者が提供した自家発電機を稼働させ、なんとか電気を確保していた。周辺では携帯電話がつながらず、被災住民は、公民館前の公衆電話を頼りに、親族らと連絡を取り合っていた。携帯電話が普及する前の阪神大震災(1995年)直後の現場を思い出す。安否を尋ねる内容だろうか。公民館の電話もひっきりなしに鳴っていた。
地区内の住宅は、扉が外れたり、ガラスの割れた被災家屋の玄関には、正月飾りが掛かったままだった。酒瓶が転がり、石川県内特有の紅白の鏡餅が散乱した家もある。震災は、日常だけでなく、ハレの日までもを一転させた。
地区の中堅世代で、世話役を担う県職員の加賀淳一さん(48)が震災直後の様子を教えてくれた。元日の昼、地区の小牧壮年団の総会が開かれ、その直後に地震が襲った。加賀さんらは「高台や」「生きなあだめねんぞ」と大声を上げながら、特に海抜2メートルほどの海岸沿いにある家々を回り、海抜10メートルほどの場所へと避難を呼びかけた。
まずは家屋倒壊の恐れもない田んぼの真ん中にブルーシートを敷き、石油ストーブを置いて地区住民を集めた。次に壮年団のメンバーが二人一組で、一軒一軒を見て回り、避難していない住民を連れ出した。安全を確認後、公民館に移動したという。
加賀さんは東日本大震災後の被災地・宮城に応援職員として派遣された経験があった。「津波に襲われた東北の情景が浮かびましたよ。『誰も犠牲を出したくない』って夢中でした」と振り返った。
公民館では、十数年前に防災士の資格を取得した地元住民の赤坂美香さん(61)が段ボール製のトイレの使い方を女性たちに説明し、雨水をためて活用する方法などについても話し合っていた。その合間にも余震を知らせる緊急アラートが鳴り響く。「気をつけてー」という赤坂さんの声が響き渡った。
農作業や祭を通じた互助の知恵
「能登はやさしや土までも」という言葉がある。江戸時代の旅日記に由来すると伝えられる。取材の合間、すれ違った小柄なおばあちゃんが会釈をし、「きのどくな」と声を掛けてくれた。能登など北陸で使われる感謝を意味する言葉だという。家々を壊され、避難生活を続ける中でも遠くからの人々を気遣う気持ちに接し、こみあげてくるものがある。
自宅が壊れ、倉庫もぺしゃんこに潰れた佐藤誠治さん(56)は津波の襲来も目撃した。被災後、羽咋市の親類宅に避難したが、日中は小牧地区に戻って地域の活動を支えていた。「命が助かっただけでも、ありがたく思わんと。能登みんなで『えー』(結)しあっていかなあかんな」と知人に声を掛けている。小牧地区周辺では古くから農作業や祭などを通じた互助の知恵である「えー」が大事にされてきたという。
「珠洲や輪島の方はもっとしんどい状況かと思います。長丁場になるでしょう。能登全体で、『えー』しあうことが、より大事になってきますね」
互助頼みの危機感から外部と連携
公民館では、神戸市から来た「被災地NGO恊働センター」(神戸市兵庫区)と姉妹団体「海外災害援助市民センター=CODE」(同)が公民館に食料や灯油などの救援物資を届け、被災者への支援活動にあたっていた。
これらの団体とのつながりは2007年に遡る。同年にあった能登半島地震で、2団体は現地で支援に入った。そのころ、小牧壮年団は、伝統的な互助だけでは地区が立ちゆかないとの危機感を強め、外部からの協力者を探していた。加賀さんらが地震で縁ができた2団体に声をかけ、毎年9月に七尾市で開催される「お熊甲祭(くまかぶとまつり)」に招いて、災害時以外の交流が始まった。約20集落が久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)神社(熊甲神社)に集うこの祭は、1981年に国指定重要無形民俗文化財に指定されている。
一方、壮年団は、海外被災地にも支援する被災地NGO恊働センターに協力。昨年2月のトルコ・シリア地震の際には、地区で集めた募金を同センターなどに託した。加賀さんは「再び、こんな形で助けられるとは想像もしていませんでした」と涙を浮かべた。
七尾市は奥能登への入り口にある。先端の珠洲市までは80キロ以上。道路は各所で寸断され、続く余震で土砂崩れなどの被害も広がっている。能登の奥深さと被害の大きさを想像し、そこに暮らす人々のことを背に思いながら帰路についた。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする