「OSO18」の骨は熱かった、という。
「たい肥の山の奥に埋もれて、骨から湯気が出ていました。最初に見つけたのは腰椎の骨だったんですけど、こうやって持ち上げると持っていられなくなるくらい熱いんです。生命力が残っている感じがして……OSO18の存在を最も感じた瞬間でした」
そう語るのは、NHK札幌放送局のディレクターの有元優喜である。有元が同僚ディレクターの山森英輔とともに制作した『OSO18 “怪物ヒグマ”最期の謎』(NHKスペシャル、2023年10月15日放送)は、大きな反響を呼んだ。
とりわけ既に処分されてこの世にはないと思われていたOSO18の骨を、有元が解体所にあった「たい肥」の山の中から4時間かけて見つけ出した場面は、近年のノンフィクション番組の白眉と言っていい。
何が彼らをそこまで突き動かしたのか。初めて明かされるNHK「OSO18取材班」1年半の舞台裏。(全2回の1回目/ #2 へ続く)
◆ ◆ ◆
――そもそもどういう経緯から、2人で「OSO18」を追いかけることになったんですか?
有元 僕は2021年に起きた丘珠(おかだま)の事件(2021年6月18日、札幌市東区の市街地に現れたヒグマが4人に重軽傷を負わせた)を「クローズアップ現代」で担当したのがきっかけで、ヒグマに興味を持つようになったんです。その年の11月に「NHKスペシャル」の企画募集があったので、ちょうどその頃全国的に有名になりつつあったOSOで企画を出そうと思ったら、山森さんもOSOで出そうとしていると偶然知って、「じゃあ一緒にやりましょう」ということになりました。
山森 僕の方は「OSO18」という名前のヒグマが道東にいて、なぜかわからないけど牛を襲っていて、全然捕まらないこと自体に興味を持ったんです。圧倒的にわからないものを調べてみたくなった、というのがきっかけですね。
〈見えない怪物に、人間は何を見るのか〉
山森と有元は、ともに2020年夏に転勤でNHK札幌放送局にやってきた。
山森はいかにもテレビディレクターらしい快活さと精気に溢れたタイプに見えるが、毎月、文芸誌を買って読むのが楽しみという一面を持つ。有元は大学在学中から旧ユーゴスラビア諸国やインドなどを訪れ、雑誌や映像制作を手掛けていたという。年齢は山森の方が10歳以上先輩だが、傍から見ていても「この2人はウマが合うのだな」というのが感じ取れる。
――以前に2人で仕事をしたことは?
山森 なかったですね。よく飲みにいって、好きなドキュメンタリーとか映画とか小説とか……青臭い話をすることはありましたが(笑)。
有元 それで明日が「Nスペ」の企画書の提出締め切りという前の晩に2人で会議室に閉じこもって、A4で1枚の企画書を深夜2時くらいまでかけて書きましたよね。
山森 有元は若いんですけど、僕が書いた文章もガンガン直すんですよ。遠慮してくれないのがよかったです。何が面白いか、そのときから最後まで忌憚なく議論を続けられた気がします。
たとえば「人間が自然をコントロールしてきた時代の終焉を告げる存在」なのか、「奪われた土地に再び侵入する無数の獣たちの象徴」なのか。企画書に書く言葉のちょっとした表現の違いで、番組の方向性自体が変わってくるような気がしたという。ようやく書き上げられた企画書の最後の1行には、こう書かれていた。
〈見えない怪物に、人間は何を見るのか〉
「NHKスペシャル」としては異例の早さで、2人が出した企画は通った。
苦戦する「密着取材」
企画が通る前から現地で猟友会関係者に当たるなどの予備取材はしていたが、2人が本格的に取材に入ったのは2022年の年が明けてからだった。
その時点でOSOに襲われた牛は57頭に達し、うち26頭が死亡、襲撃現場も当初の標茶町から隣の厚岸町にまで拡大しつつあった。襲撃が始まってから2年半が経っていたが、OSOの目撃証言は、2019年の最初の襲撃時の1件に留まっていた。
――まずはどこから取材を始めたんでしょうか。
山森 調べてみると冬眠から目覚めて活動を始めたクマの足跡が追える春先が捕獲の最大のチャンスということが何となくわかってきたので、その追跡に密着できないかと考えました。その頃には「南知床・ヒグマ情報センター」の藤本靖さんが「OSO18特別対策班」のリーダーを引き受けるらしいというのもわかってきたので、まずは藤本さんのところに行きました。
「それは無理に決まっている」
藤本が“現役最強のヒグマハンター”赤石正男らと立ち上げたNPO法人「南知床・ヒグマ情報センター」は、ヒグマの生態調査と有害駆除を手掛け、これまで250頭近いヒグマを捕獲している。その実績を買われた藤本が、北海道の委託を受けてOSOの捕獲を目指す「OSO18特別対策班」のリーダーに就任したのは2021年11月のことだった。
有元 2022年の1月に標津町の事務所にお邪魔して、藤本さんと赤石さんに4時間くらいお話をうかがって。クマも猟も全然知らない世界なので、話が尽きなかったです。それで藤本さんたちのグループがエゾシカの「巻き狩り」をやるというので、その様子を撮らせてもらって、ニュースリポートとして放送したりもしていました。
山森 そういう流れもあったので「OSO18を追いかけるところに密着させてほしい」とお願いしたんですが、「それは無理に決まっている」と言われてしまいまして……。
有元 今、考えると当然なんです。シカとクマではやっぱり危険度が全然違う。後で藤本さんから「信頼できない人は絶対に連れていけないよ。ヒグマが相手の場合、現場でそいつが下手な真似をすると、本当に誰かが命を落とすことになる。だから最初は断ったんだ」と聞かされました。
山森 そんなわけで正直、最初のうちは藤本さんのチームには密着どころか、なかなか撮影すらさせてもらえないという状況でした。
被害者の酪農家を一軒ずつ回った
藤本らのチームへの取材がなかなか進まない中で、「とにかく今できる取材をやろう」と切り替えた2人は、これまでOSOによる被害を受けてきたすべての酪農家に話を聞いて回ることにした。
――酪農家の方々との話の中で印象に残っている言葉はありますか?
山森 僕が一番驚いたのは、皆さん、「OSOをどうにかしてほしい」とは仰るんですけど、「早く殺してほしい」という人はほぼいなかったことなんです。もともとヒグマがいた領域に自分たちが後から入ってきた感覚をお持ちだからなんだと思います。
有元 僕もそれは印象的でした。「もうこうなったら殺すしかないんだろうけど、元いた場所に戻ってくれれば、お互いがそれぞれの領域で生きられるのに」と。あるいは「本当は可哀想なクマなんじゃないか」とか「弱いクマなんじゃないか」とOSOの境遇に思いを馳せる方もいらっしゃいました。
山森 あの辺りは夏の気温が低いために稲作も畑作も難しくて、酪農でようやく産業が成り立ってきた地域なんですね。そういう厳しい自然環境の中で生きている者同士という部分で、OSOに対しても生き物としての共感みたいなものがあるのかもしれません。自然が相手の仕事ですから、自分たちの力ではどうしようもないもの、ままならないことがある。そのことを深く理解している人たちの言葉だと感じました。
「今思うと、どうかしてるんですけど……」
一方で藤本ら「特別対策班」への取材は相変わらず進んでいなかった。
山森 やっぱり、その焦りはありました。それで藤本さんたちに委託している北海道の釧路総合振興局のルートからも取材しようとしたら、ちょっとした行き違いがあって、一時は藤本さんのほうから「そんな風にやるならもう来なくていい」と言われてしまいました。
有元 2人して、お詫びと改めて自分たちが藤本さんに取材したい理由を書いた手紙を持って行って……結局、藤本さんはお渡しした“詫び状”の中身を読んでいなかったそうで、この間お目にかかったときに「ほれ、これ返すわ」と返してくれました(苦笑)。
山森 「来なくていい」と言われてしまった以上、正面から取材に同行させてもらうことは難しくなってしまいました。冬眠明けのクマが動き回る残雪期でしたから、僕たちが取材できていない間も、藤本さんたちのチームはOSOの姿を求めて動き回っていることは間違いないわけです。それで今思うと、どうかしてるんですけど、僕らは藤本さんの車を探して、闇雲にドライブしてたんです。
有元 夕方、藤本さんの事務所をのぞいて、もし赤いハイラックス(藤本の愛車)がなければ、どこかへ出動しているわけなんで。
山森 「じゃあ、ちょっとグルグルしてみる?」って(笑)。藤本さんはOSOを探して、我々はOSOを探している藤本さんを探していました。
有元 事務所のある標津町と襲撃現場の標茶町方面を結ぶ道路は1本しかないので、出かけているなら、どこかですれ違うんじゃないか、と。
山森 見つかったところで当時の関係性では、何も教えてくれないだろうし、取材も受けてもらえないのはわかっていたんですけど、何かせずにいられなかったというか。有元は若いからいいんですけど、僕はいい年して、そんな取材してるのは恥ずかしいんですが……。
有元 でも、いい話ですよね。
山森 よくないよ!(笑)
「やっと撮れた」映像にアクシデント
――その状態から、どうやって藤本さんや赤石さんとの信頼関係を築いていったんですか?
山森 それはもう「ちょっとずつ」ですね。
有元 とにかく僕らは「撮りたい」わけですけど、あえて「撮らない」ことを大事にしました。例えばOSOの被害現場を撮るにしても、そこには藤本さんたちだけじゃなくて、役場の方や酪農家の方、猟友会の方も集まるわけです。そこにカメラが入ると、話せないことも出てきてしまう。だから、ここは撮ってもいいのか、撮らないほうがいいのか、藤本さんの助言に従いながら、とにかく無理強いしないことを心がけていました。
山森 あとは、ありがたいことに取材で話を聞いた酪農家の方たちが「ここで被害が出たぞ」と教えてくれたり、役場の職員の方が「こういう調査をするから、来る?」と声をかけてくれて現場に行ってみたら、そこに藤本さんたちもいて……というパターンもありました。それで思い出したけど、あの3月9日の足跡のときもそうだよな?
有元 そうです。
山森 釧路総合振興局の方が「OSOの足跡探しにいくから、ついてきていいよ」と言ってくれて、有元が小さなデジカメ持って現場に行ったら、藤本さんたちも来ていて、その場で大きなクマの足跡を見つける場面をやっと撮れた。ところが……。
有元 デジカメが壊れて、データが全部飛んじゃうという(苦笑)。慌てて修理に出して、何とかデータ復旧できたからよかったんですけど。
山森 あれが2022年の1月から3月で唯一撮れた映像だったもんね。
有元 本当に死ぬかと思いました。
「OSO18の実像」が見えてきた
結局、2022年の残雪期には捕獲に至らなかったが、藤本らはOSOの冬眠場所を厚岸町西部の森ではないかと推定。そのうえでOSOの過去の襲撃パターンを分析し、この夏、襲撃がある可能性がある場所を、推定冬眠場所から東へと向かう「厚岸ルート」か、北へと向かう「阿歴内ルート」の2つに絞った。
すると7月1日、この年、最初のOSOによる被害が出る。まさに藤本が予測した通りの東阿歴内牧野(標茶町)で3頭の牛が襲われ、2頭が死んだのである。
山森 この2022年の夏までは「OSO18の実像」という部分でいえば、何もわかっていませんでした。
有元 藤本さんも赤石さんも「何とも言えん」が口癖でしたね。何を聞いても、自分たちで調べて確信が持てない限りは「何とも言えん」と言われ続けた記憶があります。こちらは推測でいいから聞きたいんですけど、そこはすごく緊張感がありました。
山森 2022年の夏になって藤本さんたちが現場を自分の足で調査することができて、ようやく「実はそれほど大きな個体じゃなさそうだ」とか「食べるために牛を襲っているんじゃないか」ということがわかってきたんです。
有元 爪で傷つけられただけで食べられてはいない牛が結構いたので、最初のころは「ハンティングを楽しんでいる猟奇的なクマなんじゃないか」という人もいたんです。
あるいは、「牛を引き裂く巨大な怪物グマ」や「賢く、人間に目撃されずに移動する忍者グマ」など、人間の側が作ったいろんなイメージがあったんですけど、藤本さんたちの調査でひとつひとつ覆していった感じです。別に猟奇的ではないし、特別賢いわけでもないと。
山森 傷つけられただけの牛がたくさんいるのも、OSOは食べるために襲ったけど牛のほうが大きかったために、仕留めきれなかっただけなんじゃないか……と次第に「OSO18の実像」が見えてきた感じはありました。
血まみれの牛の「死骸が消えた」
――取材を通じてOSOの存在を肌で実感した場面というのはありましたか。
有元 あ、最初にそれを感じたのは2022年7月11日の2件目の被害現場ですね。知り合いの酪農家の方から「またやられたぞ」と連絡を受けて、血まみれで横たわっている牛の死骸を初めて見たんですが、それがものすごく巨大なんですよ。こんなに大きいものを斃して食うというのは、いったいどういうクマなんだと初めてOSOの存在を実感しました。
山森 ただこのときは、「現場に人間の匂いをなるべく残さずに死骸を放置すれば、またOSOが戻ってくるんじゃないか」という藤本さんの作戦もあって、僕らは現場をあまり撮っていないんです。それで有元が赤石さんに「まだ近くにOSOがいる可能性あるんですか?」と聞いたら、あっさりと「いるんでないかい。そばに」と仰って(笑)。
有元 実際、翌日また酪農家の方から電話がかかってきて「死骸が消えた」っていうんですね。現場に行ったら、牧場関係者の方が「こっちに引きずられていった跡があるんだよ」と言いながら、血の跡が続いている沢の方に案内してくれようとするんですけど、僕はものすごく怖いんですよ。思わず「クマ、大丈夫ですか?」と映像の中で言っちゃっているんですけど、あれが一番近くでOSOの存在を感じた瞬間だったと思います。
――山森さんはどうですか? OSOの存在を感じた瞬間というのは?
山森 川沿いに残された骨だけになった牛の死骸を撮りに行ったことがあったんです。それでその牛の持ち主の酪農家の方に現場まで案内していただいたんですが「日が暮れると、このあたりは歩きたくない」って仰るんですね。家のわりと近くなんですけど。そのときの本当に怯えた表情を見て、初めて僕もOSOの存在を感じたような気がしました。
〈 「デカッ!」謎のヒグマ・OSO18の骨を“たい肥”の山から4時間かけて発掘…NHKスペシャル取材班が辿り着いたクマの正体 〉へ続く
(伊藤 秀倫)