戦艦「大和」よりスゴかった? 史上最多の被弾で沈んだ“日本最後の戦艦”とは

82年前の8月5日、日本最大の軍艦「武蔵」が竣工しました。すでに戦争が激化していたため、すぐさま臨戦態勢に入りました。
戦艦「大和」の同型艦 のちに連合艦隊旗艦にも
82年前の1942(昭和17)年8月5日、旧日本海軍の戦艦「武蔵」が竣工しました。「武蔵」は世界最大の主砲口径と排水量を持つ戦艦「大和」の同型艦で、我が国最後の戦艦です。
1921(大正10)年にワシントン海軍軍縮条約が締結されてから、日本海軍はしばらく戦艦を建造できなくなりました。軍縮条約からの脱退を機に、海軍は再び戦艦を建造し始めます。戦艦「陸奥」以来、20年ぶりに建造されたのが大和型戦艦で、「武蔵」は「大和」につづく2隻目の新型戦艦として計画されました。
建造は三菱重工の長崎造船所で実施。この時の機密保持は徹底しており、船台は漁網などに用いる棕櫚(しゅろ)縄ですだれ状に隠され、造船所が良く見える「グラバー園」も情報秘匿の観点から買収されたといいます。また、搭載する46cm主砲は呉で製造されていたため、これを長崎まで運搬するためだけに給兵艦「樫野」が建造されています。
「武蔵」は、「大和」より司令室が広く確保され、旗艦としての機能強化が図られるなど、「大和」から設計変更された点もあります。また、日本海軍待望の新型主力艦ということで、技術の粋が集められ、結果、日本戦艦の集大成としてふさわしい艦に仕上がっていました。
太平洋戦争の開戦からしばらく経った1942年8月5日に就役すると、「武蔵」は日本海軍の拠点となっていたトラック諸島(現在のミクロネシア・チューク諸島)に向かい、「大和」に代わって連合艦隊の旗艦となります。ただ、旗艦機能が置かれたことで、最前線へ積極的に投入しにくい存在ともなりました。戦艦として世界最強の実力を持つ大和型2隻は、アメリカとの戦いにおける切り札として慎重に使われることになります。 そのため、「大和」「武蔵」は共にトラック諸島で待機する状態が続きました。他艦の兵士は、大和型の艦内装備の充実ぶりと、最前線に出ないことを揶揄し、「ヤマトホテル」「武蔵屋旅館」と呼んだそう。 なお、「武蔵」は「大和」より長い期間、連合艦隊の旗艦を務めたほか、ブーゲンビル島上空でアメリカ軍機に撃墜されて戦死した山本五十六 連合艦隊司令長官(当時)の遺骨を日本本土に運ぶ役目も果たしています。
「温存」で活躍の機会を逃した?
旧日本海軍が前述したような方針をとったため、死闘が続いたガダルカナル島をめぐる戦いには、最も旧式の金剛型戦艦が投入され、「大和」「武蔵」が戦力として加わることはありませんでした。いっぽうアメリカ海軍は「サウスダコタ」や「ワシントン」などの最新の戦艦を最前線に投入し、ガダルカナル島をめぐる戦いの分水嶺となった第三次ソロモン海戦に勝利しました。 「武蔵」が本格的な実戦に参加したのは、1944(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦です。連合艦隊の旗艦機能も軽巡洋艦「大淀」や陸上に移ったため、ついに「武蔵」も最前線に投入されることになったのです。
ただ、ガダルカナル戦の頃と違ってアメリカとの戦力差は大きく開きつつあったほか、戦いの主役となった航空機の脅威も更に増し、「武蔵」が戦局に貢献できるような舞台は既にありませんでした。戦いに臨むにあたって、副砲を撤去して対空機銃を増設するなど、戦訓を踏まえた改装が施されています。 マリアナ沖海戦でも「武蔵」は、目立った戦果を挙げることなく終わっています。そして最後の戦いとなったのが、同年10月に起きたレイテ沖海戦(捷一号作戦)です。栗田健男中将が率いる主力部隊に配属され、「大和」「長門」「金剛」「榛名」などの名だたる日本戦艦と共に、フィリピンのレイテ島へ上陸しようとするアメリカ軍の迎撃へ向かいます。 しかし、途上のシブヤン海でアメリカ海軍艦載機から6回にわたる猛攻撃を受け、ついに沈没。竣工からわずか2年3か月で、その短い生涯を閉じることになりました。ただ攻撃が「武蔵」に集中し、被害を一手に引き受ける形となったため、主力部隊は壊滅を免れることができました。この時受けた被害は魚雷20本、爆弾17発と推定されており、軍艦としては史上最多と言われます。 2015年、マイクロソフト社の共同創業者であるポール・アレン氏が海底に沈む「武蔵」を発見。同年10月には、「武蔵」に艦内神社を分祀した氷川神社(さいたま市大宮区)の境内に「戦艦武蔵の碑」が建立されています。
※一部修正しました(8月5日17時55分)。

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