「あの後藤栄治が本当に生きていたとは」9月2日、長崎県警が名誉棄損の容疑で逮捕した男の素性に、暴力団関係者らは驚きを隠せなかった。なぜなら男は1985年、指定暴力団山口組4代目組長だった竹中正久ら3人を射殺した疑いで指名手配され、その後、39年間も逃げ続けた「伝説の逃亡犯」だったからだ。
〈画像あり〉神戸市のラーメン店の組長の射殺事件や、水戸市の六代目山口組系組事務所での幹部射殺事件などで逮捕された絆會のナンバー2
子分の解放と引き換えに自首するはずだったが…
長崎県松浦市の元市議会議員に対する名誉棄損容疑で、同県諫早市の無職の男(75)が逮捕された。だがこの男、ただの無職の高齢者ではなかった。渡世名を後藤栄治といい、1985年、指定暴力団山口組四代目組長だった竹中正久ら3人を射殺した疑いで指名手配されていた人物だったからだ。
1984年6月、山口組は三代目組長・田岡一雄亡き後に跡目争いが起こり、四代目組長となった竹中正久の襲名に反発した山広組組長・山本広らが組を割って山口組を出て、一和会を結成した。一時期、一和会は山口組を1000人近く上回るほどの一大勢力だった。その二代目山広組若頭だったのが、傘下の後藤組組長だった後藤である。
1984年8月、和歌山県の賭場で一和会坂井組幹部を山口組系岸根組組長が刺殺、山一抗争が勃発した。四代目山口組は一和会を絶縁し、切り崩しを行なう。一方の一和会では後藤が竹中組長の殺害を実行すべく部隊を結成し、これを指揮。1985年1月26日、大阪府吹田市内の竹中の愛人のマンション1階のエレベーター前で、竹中組長と山口組若頭・中山勝正、ボディガードとして帯同していた山口組系南組組長・南力は襲撃され、3人とも射殺された。
この事件で実行犯と襲撃を指揮したとされる山広組内同心会会長の長野修一、一和会系悟道連合会会長・石川裕雄らが逮捕された。だが後藤は事件後、四代目山口組に拉致監禁された組の若頭を救うため、山口組に詫び状を入れ、警察に解散届を提出。子分の解放と引き換えに自首するはずだったが、そのまま逃走、行方をくらましたのだ。
「ヤクザの中でも事件のことを知っている者は少ない」
「その後、2年くらいはいろいろと噂が流れたが、どこかで捕まって殺された、死んだという噂が出た時点から、それ以上の話は湧いてこなくなった。六代目山口組が分裂したとき、一和会の話で少し盛り上がったくらいだ」と、当時を知る暴力団関係者S氏は話す。誰もがてっきり殺されているとばかり思っていた男が、ひょっこり出てきたという感じらしい。
「それにしてもよく逃げたよな。かたや無期で刑務所暮らし、先にあるのは獄中死。かたや逃げ延び、今やお天道様の下を堂々と歩いている。ムショにいるやつにとっては、やりきれないだろうな」とS氏。無期懲役の実刑を受けた長野は熊本刑務所に、石川は旭川刑務所に服役中だ。S氏の話によると、極道の間で石川は英雄視されているという。「ヤクザを辞めてカタギになりますと一筆書けば仮釈放になるのに、それを書かず生涯極道を貫く姿勢」が極道たちの胸を打つというのだ。
だが当時のことを知る者は少ない。山口組から一和会が分裂して、すでに40年が経った。「ヤクザの中でも、いや山口組の中ですら事件のことを知っているのは60代も後半以上だ。三代目の若い衆だった者でないと覚えていないだろう」とS氏は言う。当時、他の組に所属していたA氏は、山口組の分裂騒動を刑務所の中で聞いたという。「当時は刑務所の中に『私は一和会です』というのが何人もいた。でも山口の組長が殺され、一和会が解散になった後は、暗黙の了解ではないが『私は一和会です』と話す者はいなくなったな」と話す。
A氏に言わせると「20年逃げたらこっちのもん」だという。「警察でもヤクザでも若い者はユーチューブや映画、本で山一抗争を知るだけで、実際については何も知らない。指名手配の顔を見ていたって、誰もわからない、指名手配されていた後藤の写真は当時のままだ。所轄にいたお巡りさんだって20年も経てばそこにはいない。事件すら忘れ去られる。車の運転をしなければ、怯えて暮らすこともない。車の運転では、ちょっとした違反でも犯罪になり、身元を洗われるからだ。今さら出てきても、すでに時効は成立していて、後藤が刑務所に入ることはない。事情聴取する刑事も、事件の詳細は実際のところ知らないだろう」(A氏)
六代目山口組の分裂騒動とは事件が全く異なっている
ところで、当時の山口組分裂と今の六代目山口組の分裂騒動は事件が全く異なっている。当時の山口組を割って出ていったのは、亡くなった三代目に盃をもらった直参たち。つまり三代目の若い衆で、四代目になった竹中組長に反発した者たちだ。組長から盃をもらっていない者を処分することはできない。そのため山口組は一和会を処分できず、絶縁状という形をとる。だが六代目山口組の分裂は、組長の司忍から盃をもらった六代目の若い衆が、六代目を裏切って造反し組を出ている。
「構図的に考えれば、山一抗争はシンプルだ。次に親分になるヤツがいやだから、出ていった。だから彼らは菱の代紋を下ろし、名前に山口組を使わなかった。会を結成したものの切り崩しにあってやられたから、やり返して組長たちを殺したら、自分たちがもっとやられて解散に追い込まれた。だから出ていった組員のほとんどが山口に戻ったはずだ」(A氏)
一和会はその後、組長の引退などが続き組員数が激減。1989年3月、山本会長が自らの引退と一和会の解散を警察に届け、山口組に謝罪し、抗争は終結した。旭川刑務所で刑に服している石川は、この一報を聞きどう思ったのだろう。
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取材・文/島田拓集英社オンライン編集部ニュース班