東日本大震災で、津波による甚大な被害を受け、市街地の約65%が浸水した宮城県東松島市。当時、同市立大曲小学校の教頭だった羽陽学園短大(山形県天童市)の准教授・荒明聖さん(61)は昨春、10年以上しまい込んでいた思いを語り始めた。「書籍やネットで学ぶ『知識』でなく、生の経験を聞き、自分に置き換えて考えてほしい」と話す。(渡辺ひなの)
「多くの人の死に直面し、自分も気持ちがやられていた。児童の遺体の身元確認の時ですら涙も出ず、悲しいという感情を感じなかったんです」
昨年5月、宮城県石巻市の「みやぎ東日本大震災津波伝承館」で、来館者を前に語った言葉。それは、13年以上封印していた自らの胸の内だった。
2011年3月11日午後2時46分、職員室で書類を作成している時に激震に襲われた。立っていられないほどの揺れで、校内放送で避難を呼びかけようと握ったマイクにしがみつき、踏ん張った。
学校は海から約2・7キロ離れていたため、「津波が来るとは全く考えていなかった」。学校のマニュアル通り、揺れが収まると校庭に移動し、児童を保護者に引き渡した。残りの児童らは体育館に避難させた。
校外の女性から「大津波警報が出ている」と聞き、校長と相談して児童らを校舎の2階以上へ垂直避難させた。まだ、そこまで危機感はなかった。
だが、2階の教室から窓の外に目をやると、住宅の間を黒い津波がじわじわと迫っていた。流されてきた大量の車やがれきが校舎に当たり、窓ガラスが割れる音が響いた。さっきまでいた体育館も浸水した。
同校を襲った津波の高さは約1・9メートル。学校にいた児童は全員無事だったものの、保護者と帰宅するなどした児童11人が犠牲になった。
同校は避難所となり、最大870人が身を寄せた。全国各地から食料や義援金など様々な支援が届いた。
「支援してくれた人たちに恩返しをしたい」と考え、その年の秋頃から出前授業や講演のため、群馬や熊本、鳥取など全国各地に足を運んだ。
それから150回以上の出前授業をした。ただ、震災への思いを語ることは避けてきた。管理職としての立場があったことや、犠牲になった児童らに対する自責の念などがあり、「震災を『ネタ』にできない」と考えたためだった。
昨春、宮城県での教員生活に終止符を打つと、気持ちが変化した。「自分ももう長くないかもしれない。我慢しないで思いを伝えたい」。全国で地震や豪雨などの災害が相次ぐ中、自分の経験を役立ててほしいとの思いもあった。
覚悟を決め、昨年5月以降、みやぎ東日本大震災津波伝承館で、語り部として計3回登壇した。現場の指揮や避難所運営などの対応にあたった当時の気持ちをありのままに語った。
4か月間、感情が何も湧かなかったこと。避難行動が正しかったのか今も悩み続けていること。被災後に「なぜ津波が来るのを教えてくれなかったのか」と遺族に言われ、言葉が出なかったこと――。
最近は、防災の出前授業でも少しずつ、当時の思いを話せるようになってきた。荒明さんは「それが聞く人の心にとどまり、自分ごととして考えてもらうきっかけになれば」と思う。
今は仙台市に住み、山形県天童市で教鞭を執る。震災直後には、児童たちと芋煮会に参加させてもらったり、啓翁桜やサクランボをもらったりするなど、山形の人からも多くの支援を受けた。「話すことで14年前の恩返しをしたい。要望があれば、どこでも話しに行きたい」
語り部や防災の出前授業などの依頼は同短大(023・655・2385)へ。