耳に残るうめき声。「転げ回るほどの苦しみ」。地下鉄サリン事件に対峙した警察官の記憶と後悔

元警察官の60代男性の耳には、地下鉄の駅で聞いたうめき声が今も残っている。1995年3月20日、朝から警察署の自席にいた。警察無線が騒がしい。 「不審物がある」「ゲリラ事案に発展するかもしれない」。東京都内の複数の駅で同時多発的に何かが起きていた。鳴りやまない無線が異常事態を知らせていた。 男性はスーツ姿のまま捜査車両で飛び出した。無線で被害があると聞かされた近くの駅に向かった。駅に着くと、多くの人が改札付近や通路に倒れ「う、う…」とうめき声を上げていた。 1995年に起きた地下鉄サリン事件では、多くの警察官が人命救助や事件捜査に関わった。事件から30年。OBとなった彼らに今の思いを聞いた。(共同通信=地下鉄サリン事件取材班)
▽素手でつかんだ証拠物
地下鉄日比谷線築地駅前の路上で、手当てを受ける地下鉄サリン事件の被害者=1995年3月20日
元警察官の男性が地下鉄駅に駆けつけたところに場面を戻す。
現場にいた人に話を聞こうとすると、上司から「証拠物がある。そっちをやってくれ」と指示された。 その「証拠物」は外の駐車場の真ん中に置かれていた。新聞紙に巻かれた二つの不気味な物体。うち一つはひどくぬれていた。部下が素手でつかんでプラスチックのバケツに入れ、捜査車両で警察署まで運んだ。 警察署のベランダで取り出すと、新聞紙の内側には黄色みがかった液体の入ったポリ袋が見えた。証拠品として写真撮影をしている最中に他の署員が叫んだ。「毒物らしいぞ」。テレビのニュースで、液体がサリンだと知った。
▽サリンの危険性は伝わっていなかった
地下鉄日比谷線築地駅前で、防毒マスクを着けて捜索にあたる警視庁の捜査員ら=1995年3月20日
室内に戻ると、日中にもかかわらずなぜか周囲が暗く見えた。サリン被害の症状で、瞳孔が過度に収縮する「縮瞳(しゅくどう)」だった。別の署員も症状を訴えた。素手でサリンに触った部下は自席で苦しそうにうつむいていた。 前年の1994年に長野県で松本サリン事件が起きていた。ただ、警察官にさえ危険性は十分に伝わっていなかった。男性はこう振り返る。「勇気というより、無知な行動だった」
▽後悔は30年経過しても消えない
山梨県上九一色村(当時)のオウム真理教施設に捜索に入る迷彩服姿の捜査員と機動隊員=1995年3月23日
男性はその後、オウム真理教の捜査担当などを歴任した。地下鉄サリン事件を教訓として、2000年に警視庁の公安機動捜査隊に創設された「NBCテロ捜査隊」の運用にも関わった。 NBCテロ捜査隊の任務は、核物質や細菌、毒ガスなどの生物、化学物質を使った重大テロの初動捜査だ。自らの経験を後輩たちに伝えてきた。
地下鉄サリン事件は警察の強制捜査を阻むために計画されたとされる。公安部門が長かった男性の胸には後悔の念が残る。「もっとオウム真理教をマークしておくべきだった」 当時を知る警察官は少なくなり、警視庁内からは風化を懸念する声が上がる。男性は「警察官を狙ったテロだった。それだけに、しっかり教訓を伝えてほしい」と願いを口にした。
▽若者の不安あおったオウム真理教
1990年1月、「真理党」党首として、衆院選に立候補する候補者とともに登壇した松本智津夫(教祖名麻原彰晃)元死刑囚(壇上中央)=東京都中野区
地下鉄サリン事件が発生した1995年、オウム真理教の信者は1万人を超えていた。「核戦争を回避するためには、オウムの教えを世界に広めなければならない」などと不安をあおって人類救済を説き、超能力や死後の世界に関心を持つ若者らを勧誘。当時の「オカルトブーム」も背景に、急速に勢力を拡大した。 松本智津夫(教祖名麻原彰晃)元死刑囚が1984年に立ち上げた「オウム神仙の会」が前身で、オウム真理教に名称を変えたのは1987年。「空中浮揚」を実現したとする写真を雑誌に掲載したり、テレビ番組に出演したりとメディアの露出にも積極的だった。
▽転げ回るほどの苦しみ
稲冨功さん
そんな教団の幹部には、理系の研究者など高学歴とされる人物も多かった。警察官だった稲冨功さん(78)は、そのうちの1人を取り調べた。地下鉄サリン事件の実行犯の一人で、無期懲役が確定した元幹部林郁夫受刑者(78)だ。林受刑者は医師だった。
1995年3月20日。稲冨さんは警部補として機動捜査隊に勤務していた。オウム事件の捜査本部に配属されてまもなく、地下鉄サリン事件が発生した。霊安室で両肘と両膝をすりむいた遺体を見て「転げ回るほどの苦しみ」を感じ取った。山梨県旧上九一色村(現富士河口湖町、甲府市)の教団施設への強制捜査にも加わった。 約3週間後、稲冨さんは取調室で林受刑者と向き合った。林受刑者は信徒に対する監禁容疑で逮捕されていた。稲冨さんは暴力団事件など組織犯罪の捜査歴が長く、組織の論理に従い、自らの意思を曲げる人の姿を何度も見てきた。
▽「麻原への帰依をはがす」
林郁夫受刑者
林受刑者は、教義を盾に心を閉ざしていた。稲冨さんはそんな相手にどう向き合ったのか。「理論で攻めず、対等に接しながら教祖の麻原彰晃元死刑囚に対する帰依をはがそうとした」 林受刑者は入信前に医師として患者のために働いていた。その記憶を刺激するように「先生」と呼びかけた。留置場の係員にも徹底させた。新聞を読ませ、教団に関する記事への反論に丁寧に応じた。
「私がサリンをまきました」。全容解明への入り口となる自供を引き出したのは、その年の5月6日夜。言葉数も次第に増え、松本元死刑囚の呼び方も「尊師」から「麻原」に変わっていった。 多くのやりとりを重ねた稲冨さんは、林受刑者をこう分析する。「親の期待に応え続け、自分の頭で考えることをやめた時に、わかりやすく善悪が分かれた教義に逃げ込んだのではないか」
▽アクリル板越し、続く交流
防護服を着て山梨県上九一色村(当時)のオウム真理教施設の捜索に向かう警視庁の機動隊員ら=1995年3月22日
2人は今も面会や文通で交流している。文通が始まったのは、林受刑者が服役した頃から。2007年に稲冨さんが退職した後も刑務所で言葉を交わす。2023年6月に訪れた際の話題は、儒教などに影響を受けた日本人の思想について。事件に触れることは少ない。 アクリル板越しの振る舞いも変わった。初めて会った取調室で「無表情」と感じた頃よりも穏やかになった。
稲冨さんと、心臓外科医として国内外の病院で働いた林受刑者とは、同学年だ。閉塞感を持ちながら同じ時代を生きた身として共感を抱くこともある。一方で、理解できない部分も多い。
▽「分かった気にならない」

稲冨さんの姿勢は変わっていない。「どうして事件が起きたのか、分かった気になってはいけない」。稲冨さんは問いを重ね続けている。「なぜ人は壁にぶつかると、組織や単純な世界観に傾倒してしまうのか」
日本社会には、権威や集団の圧力に同調する傾向が今もあると感じている。「事件を知らない人が増えたら、また学べばいい。一人一人がこれからも、考え続けなければならない」。そんな姿勢が、事件の再発防止につながると思っている。

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