「弟たちは成人前、姉も嫁入り前だった。家族全員が路頭に迷うと考えると、水俣病だとは言い出せなかった」 新潟市で日本海に注ぎ込む阿賀野川。その上流域・新潟県阿賀町で生まれ育った皆川栄一さん(81)が、60年前を振り返る。水俣病患者の家族は就職や結婚でいわれなき差別を受けていた。そのため自身の症状を口に出せず、我慢して働いた。 その後、医師から新潟水俣病だと診断されても、行政からは患者認定を受けられなかった。今は原告団長として、国と原因企業の昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)に損害賠償を求める裁判を10年以上率いている。
熊本県の水俣からはるか離れた新潟も、終わりの見えない公害病が発生した土地だ。5月31日の新潟水俣病「公式確認」から60年。被害者や、長年地域に寄り添ってきた医師の話から、今を探った。(共同通信=神部咲希、井上慧、一部写真は金子卓渡)
▽慣れ親しんだ川、汚染された魚
阿賀野川沿いで当時の様子を語る皆川栄一さん=2025年4月、新潟県阿賀町
皆川さんは「阿賀野川に生かされてきた」としみじみ語る。家のすぐ近くを流れる川で、生活のための水をくみ、取れた魚を家族で食べた。川沿いを歩きながら「あそこの岩からよく川に飛び込んだ」「子どものころはもっと水が澄んでいた」と、思い出話があふれ出す。
しかし、身体をむしばんだのも同じ川だった。20歳になった1963年ごろ、手足のしびれや耳鳴りに悩まされ始めた。「頭の中でセミが鳴いているよう」と、つらさをたとえる。大工仕事をしていても頭がぼうっとし、道具をよく落とした。
1956年、熊本での水俣病公式確認に続き、新潟水俣病は1965年5月31日、新潟大学が「有機水銀中毒患者が阿賀野川下流域に散発している」と新潟県に報告したことをもって「公式確認」の日とされる。
新潟水俣病の原因となった旧昭和電工鹿瀬工場=1971年9月、新潟県鹿瀬町(現阿賀町)
水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくと並ぶ四大公害病の一つ、新潟水俣病。新潟県鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工鹿瀬工場の排水に含まれていたメチル水銀が、阿賀野川の魚を汚染し、その魚を食べた住民が手足の感覚障害や視野狭窄(きょうさく)を発症した。 水俣病と新潟水俣病は、汚染された魚を食べて発症した点や、症状が共通する。
▽「近寄るな」「金欲しさ」と聞こえた差別
新潟水俣病患者に送られた嫌がらせの手紙 (新潟県立環境と人間のふれあい館提供、撮影時期不明)
皆川さんは「自分も水俣病かもしれない」と考えた。しかし公式確認と同時期に、父が55歳で急死。5人きょうだいの長男として、家族を支える立場になった。「仕事をしなければ家族を養えない」。症状を口に出さず、働くほかなかった。
1968年ごろ、仕事で患者の家に行ったことがある。「近所では『伝染するから近寄るな』とか『大して魚も食べていないのに、金欲しさで申請した』という話を聞いた」。患者や患者の家族に対する差別をひしひしと感じ、自分にも同じ症状があると言い出すことはできなかった。
▽最初の「最終解決」
新潟水俣病の未認定患者救済に関する協定書に調印する村田一昭和電工社長(右)と新潟水俣病共闘会議の清野春彦議長(手前左から2人目)、南熊三郎新潟水俣病被害者の会会長(手前左)=1995年12月11日、新潟市の白山会館
国は1974年、公害健康被害補償法(公健法)に基づく患者認定制度を始めたが、1977年に認定基準を厳格化。原則として複数の症状の組み合わせを必要とした。こうして未認定患者問題が起きた。
1995年、当時の与党3党(自民党、社会党、新党さきがけ)が「最終解決」策を発表。これを受け、新潟水俣病の被害者団体と昭和電工が協定を締結し、昭電が病気特有の症状がある未認定患者に一時金や医療費を支払うことが決まった。 しかし、皆川さんが声を上げられるようになるまでは、まだ時間が必要だった。
▽2度目の「最終解決」が閉ざされる
新潟水俣病の早期救済などを巡り、国への働きかけを求める要望書を花角英世知事(右)に手渡す阿賀野患者会の皆川栄一副会長(左から2人目)ら=2024年7月12日、新潟県庁
転機は2009年。政府は再び「最終解決を図る」として、水俣病特別措置法(特措法)を施行した。1995年より対象を広げて一時金を支払うなどの内容で、新潟県では約2千人に被害者手帳が交付された。 ただ、国は被害者団体などの反対を押し切り、2010年から始めた申請受け付けを約2年で締め切った。
皆川さんは当時、子どもも既に独立していたことから申請を試みたが、2012年の申請期限には間に合わなかった。 翌2013年、医師から新潟水俣病と診断され、県に患者認定を申請。同じ年、国と昭和電工に損害賠償を求め提訴した。ようやく声を上げられたが、症状を自覚してから50年の月日が流れていた。
▽申請の6割、1600件以上が棄却
新潟市で始まった伊藤環境相(左手前から2人目)と新潟水俣病被害者団体との懇談=2024年7月17日
新潟水俣病の認定患者は、公健法に基づく補償が受けられる。しかし認定基準は厳格で、地域で長年患者を診てきた医師が「水俣病だ」と診断しても、自治体の審査会で申請が棄却されることが多い。皆川さんも2度棄却され、現在3度目の申請中だ。 患者認定には5月23日現在で2767件の申請があり、717人が認定、1649件が棄却された。残りは審査中か取り下げ。棄却は申請の約6割を占める。こうなると、被害者にとっては訴訟が頼みの綱となるが、裁判は長期化している。
▽一度も認められない「国の責任」
新潟水俣病訴訟の判決後、新潟地裁前で「国の責任を認めず」などと書かれた垂れ幕を掲げる弁護士ら=2024年4月18日
提訴から10年以上が経過した2024年4月、新潟地裁は皆川さんの水俣病罹患(りかん)を認め、レゾナックに損害賠償を命じた。一方、国の責任は認めなかった。皆川さんは憤る。 「熊本で水俣病が発生していながら、なぜ新潟で防げなかったのか。国の責任がうやむやになるのは許せない」
▽「政治で救済の道を」
新潟水俣病判決を受け、記者会見する原告団長の皆川栄一さん(中央)ら=2024年4月18日、新潟市
1982年に、新潟水俣病の被害を訴える住民が国と昭和電工に損害賠償を求めて提訴して以降、たくさんの訴訟が起こされた。しかし、国の責任を認めた司法判断はない。
新潟水俣病訴訟の控訴審第1回口頭弁論のため、東京高裁に向かう原告ら=2024年12月3日
皆川さんを水俣病だと認めた2024年の判決だが、原告の中には認められない人もいた。全員の認定を求める原告側と、レゾナックの双方が控訴し、現在も東京高裁で審理が続く。終わりの見えない裁判に皆川さんは声を落とす。「まさか10年も裁判を闘うなんてことは考えていなかった」 患者認定されず、特措法からも漏れた住民が国などを相手取った訴訟は2023~24年、皆川さんら複数の原告が水俣病と認められた。それでも行政は患者認定せず、制度見直しに向けた動きもない。
皆川さんは、約2年で申請が締め切られた2009年の特措法の復活を望んでいる。裁判の長期化や被害者の高齢化を踏まえ「政治の力で救済の道を作るしかない」と話す。
▽公式確認当時を知る94歳の医師
多くの新潟水俣病患者を診てきた斎藤恒医師=2025年3月、新潟市
60年前から、大勢の被害者が頼ってきた94歳の医師がいる。長年患者の診察を続け、患者認定を求める住民訴訟でも積極的に証言台に立ってきた。新潟市の木戸病院名誉院長の斎藤恒さんは訴える。「なぜ被害が発生し拡大したか、国はいま一度考え、解決に向かって動くべきだ」
新潟市の診療所長だった1964年の暮れ、阿賀野川流域に住む患者から「盆踊りするような猫がいる」と聞いた。その時は気に留めなかった。翌年、同僚から、新潟大学に有機水銀中毒患者が入院し、汚染源は阿賀野川の魚のようだと聞いた。気になって川を見にいくと、1メートルおきに並ぶ釣り人。「大丈夫なんだろうか」と驚いた。程なく5月31日、新潟水俣病が明らかになった。
▽肌で感じた患者家族の様子
その後は患者の診察に明け暮れた。中でも1965年ごろに診た胎児性水俣病の女児をよく覚えているという。来客から見えない台所奥の小さな部屋に、1人ぽつんといた。当時は国が病を公害認定しておらず、さまざまな臆測や差別が飛び交った。女児には、結婚適齢期のきょうだいがいたという。 「赤ん坊としてあやされもせず、寝かされたままだった」。元々小児科医だったこともあり、心が痛んだ。
こうした空気を肌で感じながら、地域に根差す医師として診察に当たってきた自負がある。それでも、斎藤さんが水俣病だと診断した住民が、直ちに患者と認定されるわけではない。公健法に基づき住民から申請を受け付け、自治体が設置する審査会で患者か否かを判断するからだ。結果が出るまでに数年かかることもある。
▽「自主規制」で被害拡大
斎藤恒医師
斎藤さんは、行政の初動対応に疑問を持っている。県は1965年7月、阿賀野川下流域の5漁協に、魚を捕らないよう行政指導し、協力見舞金として総額50万円を給付した。 ただ斎藤さんによると、法的根拠がない「自主規制」で生活もあるため、魚を捕り続けた漁師がいた。魚を売るため「川魚は食べなかったことに、症状はないことにしよう」とする動きも一部であり、被害が広がったと指摘する。
斎藤さんは「魚の流通を制限できる食品衛生法を国が適用しなかったことも問題だった」と考えている。新潟水俣病は魚に起因する集団食中毒だと捉えられなかった。 現行の食品衛生法は「有毒な、もしくは有害な物質が含まれ、もしくは付着し、またはこれらの疑いがあるもの」について流通を禁じている。一方で1965年当時の法は「疑いがあるもの」という文言がなかった。阿賀野川の全ての魚が汚染されているという確証がなく法は適用されなかった。
斎藤さんは語る。「いつの間にか水俣病は、患者の認定問題になってしまった」。病気だと認定されたのに「ニセ患者」だとレッテルを貼られた人、未認定のために訴訟で生活環境を事細かに説明しなければならなかった人…。そういった患者たちを、そばで診てきた。でも医師として言いたいのは「患者さんは、うそは言わない」ということだ。
▽新潟は健康調査の実施めど立たず
環境省は、熊本、鹿児島両県の住民健康調査を2026年度に始める方針だが、新潟での実施は未定。被害者の高齢化も進み、不満は高まっている。2回の「政治的最終解決」も中途半端に終わり、被害の全容解明も見通せない状況だ。