【佐高信「追悼譜」】
又市征治(2023年9月18日没、享年78)
◇ ◇ ◇
原発に党を挙げて反対できず、改憲ならぬ壊憲にも正面からストップをかけられない立憲民主党に、又市は元党首でありながら社民党を捨てて参加した。だから、死亡記事に「元社民党党首」と出たことに社民党に残った人たちはみんな怒っている。
又市は忘れたふりをしていたが、マッサージの女性とスキャンダルを起こして週刊誌ネタになった。それで、どれだけ社民党が女性票を失ったか。
当時、三宅坂にあった社民党本部に右翼の街宣車が押しかけ、強烈な皮肉を放った。
「社民党のみなさん、今日はマッサージの御用はありませんか」
急所を突いたアナウンスに、事務局の人間は「やってられない」と苦り切っていた。
恥というものを知っている人間なら、直ちに国会議員をやめる。ところが又市は表の顔の党首さえ続けたのである。
社民党などどうなってもいいと考えたのか、小さいながらも党首の座が居心地よくてしがみつきたかったのか。いずれにしても社民党のイメージを著しく低下させた責任は大きい。
自治労出身の又市は労働組合型政治家で、とにかく組織を優先する。理念などどうにでもなるといった感じだった。
まさに「死者に鞭打つ」で私がこれほど怒るのは、同年輩の又市を応援してしまったからである。もちろん、社民党時代だが、ある時の参議院議員選挙では候補者の又市と推薦者の私の同じ大きさの写真のポスターが山奥にまで貼り出され、それを見た何人かの知人や友人から、お前が立候補するのかと冷やかしの連絡が来た。まさか、党首だった又市が社民党の解党に賛成して立憲に行くとは思ってもみなかった。元党首の吉田忠智や元幹事長の吉川元も又市に追随し、議員で残ったのは沖縄の照屋寛徳と福島みずほだけということになった。
又市を含めて、吉田や吉川の応援に行ったことを私は後悔した。彼らが「社民党の候補」だったから応援したのであり、私は彼らを信頼して推薦者となったわけではない。それにしても、心変わり、もしくは変身が早過ぎはしないか。
当時、社民党の全国幹事長会議では、立憲に合流して護憲と反原発の旗を掲げ続けられるのかを危惧する声が相次いだ。又市の耳にはそれはまったく届かなかったのだろう。晩節を汚した見本だと私は思っている。
「党の解体には断固反対。小松基地や志賀原発の活動で立憲の人に呼びかけているが、出てこない。立憲は選挙の時だけの党だ」
石川県の活動家はこう嘆いた。立憲の前身の民主党に社民党から12人が移った時、社民党の御意見番の山本政弘は「それでインパクトを与えられるとは考えられない。合流したいという人は結局、『自分をいかに守るか』という私利私欲しかないのではないか」と指弾した。残念ながら又市はその典型だった。(敬称略)
(佐高信/評論家)