「それこそこの世の終わりかと思いました」 関東大震災、川崎の工場被害に着目 少ない記録から教訓学ぶ

100年前の関東大震災の教訓を学ぶワークショップが今月、川崎でスタートした。大火に見舞われた東京や横浜と比べて被害が小さく、工場などの被災状況が広く知られていない川崎を取り上げ、震災翌年の川崎市制施行や被災後のまちづくりを振り返る。当時の記憶をとどめる県西部や東京の現場に足を運び、震災の実相に迫る。
「火災の被害が大きかった東京や横浜は住宅などが密集していたが、当時の川崎はそうではなかった。実際、地元の被害を刻んだ慰霊碑は少ない」。ワークショップで講師を務める日本地名研究所(川崎市高津区)の菊地恒雄事務局長(79)は指摘する。「だからといって、被害がなかったわけでは決してない。証言集などが残っており、状況を読み取ることができる」
川崎の状況を象徴するのは工場の被害だ。当時の川崎町では290人が犠牲になったが、その多くが富士瓦斯(がす)紡績川崎工場で働いていた女性だった。
出火はしなかったものの、激しい揺れで寄宿舎が倒壊。夜勤明けで寝ていた女性労働者ら150人以上が命を落とした。川崎市史では、一命を取り留めた女性の「それこそこの世の終わりかと思いました」といった証言を引用している。

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