「ゲンバク」。2歳の時に長崎で被爆した中村由一(よしかず)さん(80)は4年後に入学した小学校でそう呼ばれ、いじめられた。「本当の平和をつくるためには、差別をなくさなければならない」。被爆の苦しみと差別のつらさを体験した中村さんは、そう確信している。
「中村由一」
1955年春、長崎市内の小学校。卒業式で担任の女性教諭が中村さんの名前を呼んだ。しかし、中村さんは起立しなかった。
普段は女性教諭もクラスメートも、自分を「ゲンバク」と呼んでいた。保護者らの手前、卒業式でだけ自分を名前で呼ぶ教諭に反発したからだ。
近づいてきた女性教諭に「今まで通り『ゲンバク』と呼んでください」と伝えると、教諭は困惑しながら再び「中村由一」と呼んだ。参列していた母の気持ちを考え、中村さんは仕方なく立ち上がった。
「昨日まで『ゲンバク』と呼んでいたのに、何で卒業式だけ『中村』なんだ。昨日も私の名前はちゃんとあった。本当に、それが一番許せなかった」
10年前の45年8月9日、2歳10カ月だった中村さんは爆心地の南約1・2キロにあった、長崎市内の自宅で被爆した。
あちこちから火の手が上がる中、がれきに埋もれていたところを近所の親類の男性たちに助け出された。がれきの下からは生後9カ月の弟勝利(まさとし)さんの泣き声も聞こえていたが、火の手が回り、焼け跡から骨になって見つかった。
気を失っていた中村さんは周りに「死んだ」と思われ、防空壕(ごう)の外に遺体と並べて寝かされていた。火葬されそうになっていたが、10歳の兄恒美さんが、中村さんの足の指が動いているのに気づいた。
救護活動をしていた看護師が注射を打ってくれ、中村さんは息を吹き返した。だが、中村さんの命をつないでくれた恒美さんは、9月16日に亡くなった。
放射線を浴びた中村さんは髪の毛が抜け落ち、両足もその時のやけどで指がうまく動かなくなった。髪の毛がなぜか抜けることは、幼いながらも記憶に残っているという。
被爆後は自宅が焼けたため、爆心地から離れた市内の別の場所に転居を繰り返した。入学した小学校で、髪の毛がなかった中村さんは同級生から「ハゲ」と呼ばれ、担任となった女性教諭も黙認した。
3年生の時に髪が少し生えてくると、あだ名は「カッパ」になった。5年生になってやっと髪の毛が生えそろうと、今度は同級生も女性教諭も「ゲンバク」と呼んでいじめた。
「他の子供たちを笑わせるために私を(ネタに)使ったのだろうけど、本当に許せない」。中村さんが振り返る。
終戦後に復員した父嘉四郎さんは49年、47歳で亡くなっていた。貧しさから新しい教科書も買ってもらえない中、母イネさん(95年に83歳で死去)が道路工事などの肉体労働もいとわずに必死に働いてくれたおかげで、最後まで小学校に通うことができた。
卒業式の後、中村さんの卒業証書が同級生に奪われた。その日の朝、中村さんは家を出る時に「母ちゃん、今まで学校に出してくれてありがとう」と感謝の言葉を伝えていた。
母に何としても卒業証書を渡したい。中村さんは必死に取り返したが、卒業証書は引きちぎられていた。
中学校に進学してからも、中村さんは別の形で差別に直面した。
卒業が近づき、造船所への就職を希望すると、担任から出身地を理由に「入れない」と言われた。その時、初めて部落差別の存在を知った。就職試験では面接で出身地などを聞かれ、不採用になった。
「試験が終わってもいないのに、そんなことを言われたとしても、諦めたくはなかった」
靴職人の修業などを経て、郵便配達の仕事に就いた。やけどの後遺症が残る足を引きずりながら、坂や階段の多い長崎の街を自転車と徒歩で回った。
50歳を過ぎてから、部落解放運動に参加。同じ出身地の仲間たちと、被爆体験と共に自らが受けた差別について、修学旅行生らに語る活動を始めた。
「小学校の時からの差別も運動を重ねていくうち、部落差別に原因があると知った」。活動は脳梗塞(こうそく)で倒れる65歳まで続けた。その後も2度、脳梗塞で倒れたが、今も核兵器に抗議する座り込みなどには参加を続ける。
脳梗塞のため子供たちに講話をする機会はなくなったが、中村さんが強調するのは差別の怖さだ。
戦争が弱者への差別を生み、差別がまた新たな差別につながる。あの時、中村さんの卒業証書を奪った同級生もまた他の児童からいじめられ、卒業証書を破るよう命じられていた。
長崎への原爆投下から78年となった9日、中村さんは台風6号が接近する中、自宅前で出身地の方向に向かって黙とうをささげた。あの卒業証書は今も大切に保管している。破れた部分を指しながら、中村さんが語った。
「ここには、差別を受けた時の私の『悔しさ』が残っている」【高橋広之】