能登半島地震の惨状に、東日本大震災で被災した人たちも心を痛めている。自らの経験を振り返りながら、一人でも多くの命が救われることを祈っている。
岩手県大槌町の会社員、倉堀康さん(40)は、テレビの緊急地震速報で能登半島地震を知り、親族6人を失った東日本大震災当時の記憶が脳裏に浮かんだ。
2011年3月11日。倉堀さんは町の南隣、釜石市の沿岸部にある建設現場にいた。揺れが収まり、津波が押し寄せてくるのを見て、同僚らと陸側の小山に逃げた。そのまま朝まで一睡もできなかった。
翌朝から正午すぎまで歩いて自宅近くにたどり着いたが、辺り一面、津波にさらわれ跡形もない。近所に住む祖母は体が不自由で自力では動けなかった。
高台の避難所へ急ぎ、両親と親戚2人を探したが、見当たらない。倉堀さんは、4人は祖母の家に向かい津波にのまれたとみている。
その後、両親の遺体と祖母の骨の一部は見つかったが、親戚の2人と町職員で災害対策本部の担当だった兄は、行方不明のままだ。
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倉堀さんは震災後、時に周囲から自身の心情を顧みられていないと感じたことがあるという。
3歳上の兄の死亡届を提出する際のことだ。「身辺整理の意味もある」「早く提出した方がいい」。生活再建が急がれる中で、そう勧める人もいた。でも、やるせなさは簡単に拭えない。兄には将来を誓った人もいた。
「死亡届を出すことは、遺体がないのに兄を死んだと決めることだ」。そんなふうに思えて、役場で用紙に記入しようとする手が止まった。1年以上かかって提出したが、当時の葛藤は今も心の傷として残っている。
「気持ちの整理が付くまでの時間は、人によって違う。自ら動き出そうとするまで見守ってほしい」
一方、震災翌日から身を寄せた避難所で運営の中心を担った。「避難者の人数把握や物資の振り分けに追われたことで、つかの間でも気が紛れた」と倉堀さん。家族が見つからない悲しみや寂しさを、ひととき忘れることができた。
声を掛け合い、ルールは常識の範囲で、縛りすぎないように。そう考えて、子供にもできる作業は参加させた。すると日に日に避難所にいる人たちの連帯感が増していったという。
震災の年の夏には、避難所があった地区の仮設住宅団地に入居し、代表も務めた。仮設の住民らと協力することが自らの生きる力にもなった。
倉堀さんは仕事の傍ら語り部活動や被災者のつどいの支援をし、防災士の資格も取得した。住民の立場から震災伝承や将来の巨大地震に備える活動に取り組んできた。
能登半島地震は今なお被害の全容が見えず、大切なものを失った人たちがいる。倉堀さんは「前を向いてほしい。生きていれば必ずやり直せる」と被災者を気遣った。【奥田伸一】