脳裏に焼きつく救助の光景 「忘れない」消防士の誓い 能登地震半年

暗い土砂の中で、助けを求めながら独り消えていった命があった。30年近く消防士として住民を守ってきたのに、人を救うことができなかった。自責の念を抱えて生きてきたこの半年。「もう二度と、あんな思いはしたくない。だから忘れないようにしている」。犠牲になった人たちへのせめてもの償いとして。
眼前に広がる青く澄んだ海に、静かな波の音が響く。岸には、隆起した岩礁が白く輝いている。「驚くほどきれいで穏やかな海でしょう」。石川県珠洲(すず)市で勤務する消防士、崎山大輔さん(46)は、ふるさとの光景を誇らしげに語ってくれた。「でも、町はだいぶ変わってしまった……」。半年前に一変した町並みを眺め、あの日の記憶に思いを巡らせた。
珠洲市で生まれ育ち高校卒業後、一つ年上の先輩に憧れて消防士になった。「地元の人たちの力になりたい」との思いで長年、勤務してきた。人命を救い、感謝もされる仕事にやりがいを感じていた。
元日、同市大谷町の消防分署で勤務中、立っていられないほどの揺れに遭った。とっさに車にしがみついた。2011年の東日本大震災では、発生3日後に岩手県で救助活動をしたこともあり「自分は災害に強い」と自負していた。だが、経験のない強く長い揺れにパニックになった。津波が来る恐れがあり、消防車両を運転して隣の地区に向かった。避難先の寺には、80人ほどの住民が不安な表情で肩を寄せ合っていた。
辺りがすっかり暗くなった午後8時ごろ、人づてに「男性が建物に取り残されている」という具体的な情報を得た。落石や土砂崩れで車が通れないため、現場まで歩いた。がれきをかき分けたが、反応はなかった。1時間ほど続けても、状況は変わらない。その間も、救助要請は続々と届いた。「ごめんなさい、次の現場に向かいます」。埋まっているとみられる男性の息子にそう告げ、後ろ髪を引かれる思いで現場を後にした。その後、男性は遺体で見つかった。
この後、10人近くの救助を試みたが、救命はかなわなかった。遺体安置所になった公民館で、犠牲者の亡きがらと対面した時、「すみませんでした」とむせび泣いた。三日三晩、飲まず食わずで走り回ったが、「助けたい」という気持ちだけが空回りした。通信環境が回復した6日になって、ようやく自身の家族と連絡が取れた。
この半年間、救助現場の光景がよみがえってこない日はなかった。とりわけ脳裏に焼き付いているのは、真っ暗な現場でひたすら土砂をかき分けている場面だ。生き埋めになっている人に呼び掛けても応答がない。自分の吐息だけが響く静寂の現場に、言いようのない恐怖を覚えた。
「助けを求めている人も、この静けさの中、独りぼっちで亡くなっていった。どれだけ苦しかっただろう。怖かっただろう」。毎晩、電気を消した寝室で、救えなかった人の最期を想像する。「忘れていないよ」と、彼らに思いを巡らせることが、せめてもの償いと考えたからだ。
打ちひしがれていた中で、希望もあった。倒壊家屋の下敷きになった30代女性の救助に当たった時のことだ。2階建ての木造住宅は1階を押しつぶすように倒れ、「助けてー」と叫ぶ女性の声がした。ヘッドライトで照らし、夢中になってがれきをかき分けると、女性の手に触れた。同僚と2人で救出できた。涙ながらに感謝を伝える女性に、「消防士をやっていて良かった」と心から思えた。
分署もダメージを受けたため、近くにある小中学校の校舎に間借りして勤務を続ける。つらい記憶に苦しんだが、今は「再び大きな地震が来た時に、一人でも多くの人を助けたい」という一心しかない。がれきの下で亡くなった人たちに思いをはせ、自分にできる備えをすることが使命、と考えている。【中田敦子、矢追健介】

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