京アニ被告人質問 「無敵の人」はなぜ生まれた? パン窃盗や下着泥棒…充実の高校時代から一転初めての逮捕

36人が死亡、32人が重軽傷を負った令和元年の京都アニメーション放火殺人事件で、殺人などの罪に問われた青葉真司被告(45)の裁判員裁判の第4回公判は、11日午前10時半から京都地裁で開かれる。前回公判に続き弁護側の被告人質問が行われ、憧れていた京アニに恨みを抱くようになった経緯などが被告自身の口から語られる見通しだ。これまでの公判では20代までの半生が語られた。決して順風満帆ではなかったが、理解ある先生や仲間に恵まれたり、異性とデートに行ったりする時代もあった。後に平成以降最悪の惨事に関わる「無敵の人」の片鱗(へんりん)は、まだ見えてこない。
47円のみそラーメン、家族で喜んだ
幼いころ、埼玉県内で両親と兄、妹と5人で暮らしていたという被告。「両親の仲は悪くなかったと思う」と話し、ディズニーランドや軽井沢へ家族旅行に行ったり2つ違いの兄とテレビゲームで遊んだりした思い出を振り返った。
しかし、専業主婦だった母が働きに出始めたころから両親の関係は悪化し、被告が小3のときに離婚。兄妹3人を引き取ったトラック運転手の父が無職となったことで一家の生活は困窮した。具体的なエピソードを問われた被告は「千円を持って50円の冷やし中華を買いに行ったら、47円のみそラーメンを見つけた。50円のだと20個買えるが、47円だと21個買える。1個増えたと家族で喜んで食べた」と事細かに述べた。
離婚前にはなかった体罰も受けるようになった。長時間の正座を強いられたり、裸で外に出されて水をかけられたりしたことも。暴言は「日常茶飯事だった」(被告)といい、中学1年のころには柔道の大会で準優勝した際にもらった記念品の盾を「燃やしてこい」と命じられ、逆らえずに自分の手で燃やした。そうした虐待は中2まで続いたという。
年上女性と映画やカラオケ
中学では不登校になった。だが通い始めたフリースクールでは自分を評価してくれ、尊敬できる先生と出会った。「お前なら絶対できる、もう(フリースクールには)戻ってくるな」という言葉をもらい、定時制高校に通いながら昼間は働くことにした。
いくつかの仕事を経験したが、記憶に残っているのは埼玉県庁の文書課の嘱託職員として働いていたころのこと。「仕事はやりがいがあったし、面白かった」。同僚の年上の女性と映画を見に行ったり、カラオケに遊びに行ったりすることもあった。
定時制高校も皆勤で勉強に取り組み、友人関係に恵まれ趣味も充実。複数人で遊ぶテレビゲームを11時間連続でプレーして盛り上がったり、二輪免許を取得してバイクを買ったり。ギターなどの楽器をそろえたりしたこともあった。
特に、友人から勧められたゲームに関し、ゲームの後続作品を京アニがアニメ化したと被告は法廷で説明した。「それがなかったら、『ハルヒ』(京アニがアニメ化した「涼宮(すずみや)ハルヒの憂鬱(ゆううつ)」の原作小説)も読んでいないので、小説も書かなかったと思う」と語り、京アニとの最初の接点になったことを明かした。
「何もかもいやになった」
月17万円ほどバイト代を稼げたときもあり、「いい時代だった」と定時制高校時代を振り返った被告。しかし卒業後は順風満帆とはいかなかった。
ゲーム音楽を作りたいとコンピューターミュージックを学ぶ専門学校に進んだが、周囲の人間関係につまずき、半年もたたずに退学。21歳のときに父が亡くなり、十数年ぶりに母と再会したが、「今さら出てくるのはあり得ないだろう」と反感を持ち、一人で生きていくことを決意した。
その後はコンビニのアルバイトや派遣の仕事をしたが、いずれも人間関係などがうまく築けず、長続きはしなかった。
27、28歳のころ、「疲れ果てて、何事もする気にならなかった」と困窮して生活保護の受給を求めたが役所から断られ、電気やガス、水道も止まった。公園の水道で洗濯をしたり、配送車からパンを盗んだりすることもあった。
すさんだ生活を送る中、性欲から及んだ下着泥棒や女性への暴行事件で警察に逮捕された。「何もかもいやになっていたときだった」(被告)。裁判でも反省の態度を見せなかったが、初犯ということもあり、半年後に執行猶予付き判決が出て釈放された。
その後、いったんは母や母の再婚相手の元に身を寄せたが、折り合いが悪くなり家を出て、寮付きの派遣の仕事についた。「人と関わらないようにしようと決めていた」と思っていたが、ここでも仕事の量ややり方を巡ってトラブルに。「底辺、というか派遣に対して、そんなに面倒見がいいわけないですよね」と投げやりに語った被告。その後、いくつかの派遣の仕事についたものの続かず、人生はさらに暗転していく。

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