第2次岸田文雄再改造内閣が発足した9月13日、土井亨衆院議員(宮城1区)が安倍派(清和政策研究会)に退会届を提出し、後日受理された。昨年7月8日、領袖(りょうしゅう)だった安倍晋三元首相が凶弾に倒れて以降、初めての離脱者となる。
「派閥でも『100人近い数がそろった』『あと何人で100人になる』なんてやってたときが一番危ない。それで滅びたところがたくさんある。分裂するんですね」
これは、2022年5月、森喜朗元首相が安倍派のパーティーで述べた言葉だ。
今年4月、片山さつき元地方創生担当相が入会し、最大派閥の勢力は100人に達したが、半年もたたないうちに土井氏が離脱した。森氏の〝予言〟通りなら、これは崩壊の前兆となりかねない。
安倍氏亡き後、後継をめぐり、混迷が続いてきた。
死去から1年以上を経た先月、常任幹事会(15人)が発足した。会長代理の塩谷立元文科相を座長に、萩生田光一政調会長、西村康稔経産相、松野博一官房長官、高木毅国対委員長、世耕弘成参院幹事長ら派閥有力者のいわゆる「5人衆」を中心とした集団指導体制の背後で、森氏が〝院政〟を敷く構図といえる。
派閥会長選挙を求めた下村博文元文科相は、この常任幹事会から外された。東京五輪・パラリンピックに絡み、国立競技場の建設案について、大会組織委員会会長だった森氏の意向をくまず、怒りを買ったのが遠因ともされる。
今回離脱した土井氏も同じく会長選を求めていたが、理由はほかにもありそうだ。土井氏と森氏には、22年前の〝因縁〟があった。
2001年、自民党宮城県連が制作したCMが、波紋を呼んだ。受話器を持った主婦が「こんなのなら私が『総理大臣』をやった方がマシよ」と怒る内容だ。当時の首相は、ほかでもない森氏だ。
前年6月の衆院選で、自民党は宮城県内6選挙区のうち4つで敗れた。県連が危機感から〝自虐CM〟を作成したのだが、土井氏は当時県連幹事長で、その責任者だった。
CMは党本部側の指示で修正され、「総理大臣」の部分は音声が消えたが、森氏はよほど頭に来たのだろう。土井氏が衆院選で初当選し、清和会に入った後も、目を向けようとはしなかったという。
冒頭の派閥パーティーのあいさつで、森氏は「これだけの数の派閥は、ほとんど私がつくった」とも語り、会場の笑いを誘った。そんな森氏が今も権勢を振るう現状に嫌気がさしたのか、土井氏は今回の内閣改造・党人事で一切の役職を辞退し、退会届を出したという。
離脱者が続けば、派閥衰退の予言が現実となりかねない情勢だが、森氏の胸中はいかに―。 (政治ジャーナリスト・安積明子)