下馬評を覆す完勝だった。
対戦相手だった早稲田大3年、五郎丸歩選手(37)が7点差に詰め寄るゴールキックを蹴った直後、ノーサイドの笛が鳴った。グラウンドに水色と紺のジャージーの歓喜が広がる。スタンドから「カントー」コールが響いた。
2007年1月13日、東京・国立競技場で行われたラグビーの全国大学選手権決勝は、10年連続で決勝に進んだ関東学院大が、3連覇に挑んだ早大を33―26で振り切った。日本代表経験者4人を擁する早大に、一度もリードを許さなかった。
「スターはいらない。雑草にも花が咲いた」。監督だった春口広さん(74)=当時57歳=は誇らしげに語った。
関東リーグ戦3部にいた弱小チームを1998年の選手権初優勝から10年で6度目の頂点に導いた。「もう10年やりたい」。そう意気込んだ名伯楽は、栄光が突如終わることを予想もしていなかった。(社会部 大前勇)
寮代わりマンション一室、部員が「栽培」
7度目の全国制覇に向け、良好に見えた視界は突然、閉ざされた。
2007年11月8日、横浜市金沢区の関東学院大ラグビー部監督だった春口広さん(74)は、事務職員の言葉に耳を疑った。「部員が寮で大麻を栽培しているらしい」
発端は大学側への情報提供だった。現場は同区にあったマンションの一室。ラグビー部が借り上げ、寮として利用していた。
すぐに職員と訪れ、押し入れを開けた。10~50センチの草16株が植木鉢に植えられていた。大麻だった。部屋に住む部員2人が大麻取締法違反(栽培)の現行犯で逮捕された。
ラグビー部は、既に関東リーグ戦で11度目の優勝を目前とし、その先に7度目の優勝を狙う全国大学選手権を見据えていた。最初は、公式戦の出場辞退は念頭になく、監督を辞める気もなかった。
約1か月後、警察の捜査で、ほかに12人の部員が大麻を吸ったことが明らかになる。ラグビー部は08年4月まで一切の活動を禁止された。自らも辞任を余儀なくされた。
「愛するラグビーを裏切った。監督の資格がなかった」。狭心症で入院していた横浜市の病院での記者会見で、声を絞り出し、涙をぬぐった。
3部最下位のチーム、最初は「だまされた」
24歳だった1974年、ラグビー部の監督に就任した。チームは当時、関東リーグ戦3部の最下位。貝殻交じりのグラウンドにはゴールポストもなく、初練習に集まった部員はわずか8人だった。「部の体をなしていない。だまされた……」。そう思いつつも、逆に闘志が湧いてくるのを感じた。
日本体育大ラグビー部の選手時代、1メートル56の小柄な体ながら、俊敏さと負けん気の強さで大男たちに立ち向かった。逆境は望むところだった。
マージャン荘に入り浸る部員を連れ戻し、体育の授業で体格のいい学生を勧誘した。なかなか選手が集まらず、練習試合に自ら出場した。「命がけでやります」。教授会などでそう訴え、大学側からスポーツ推薦の全面協力を取り付けた。
チームは急速に力を付ける。77年に2部、82年に1部に昇格。84年に天然芝のグラウンド3面が完成し、環境面も整った。いち早く 招聘 した外国人コーチの効果も大きかった。90年に関東リーグ戦を初めて制覇すると、98年に大学選手権で初優勝した。以降、10年連続で決勝に進み、6度の優勝を飾った。
黄金時代を支えたのが、日体大OBのネットワークだ。「盟友」といえる同期で、強豪・佐賀工業高校の総監督、小城博さん(73)からは、自校出身者のほか、無名ながら九州の有望な選手が次々と送り込まれた。
2003、07年のワールドカップ(W杯)で日本代表主将を務めた箕内拓郎さん(47)もその一人。福岡県の八幡高校時代は全国大会と無縁だったが、1994年に関東学院大の門をたたいた。
春口さんは、入学直後の箕内さんがこぼれたボールに体ごと突っ込む姿に目を奪われた。「基本を大切にし、ひたむきに取り組む。必ず大物になる」。1年生からレギュラーに抜てきした。
箕内さんは「先生は実力が同じなら若い選手を使うというスタンス。育成と強化のバランスが取れていたからこそ、10年連続で決勝まで進めたのだろう」と話す。
「監督の情熱と強いリーダーシップに加え、大学全体のバックアップもあった。全国に張り巡らした情報網で無名校から有望選手を発掘し、一流に育て上げた」。早大監督時代に大学選手権決勝で5度対戦した清宮克幸さん(56)はそう評価する。
無名校の躍進は、早大や明治大など伝統校中心だった大学ラグビーに風穴を開けた。清宮さんは、その強化手法は、後に大学選手権で9連覇を果たす帝京大のモデルにもなったとみる。
部員200人・「ワンマン」…見え始めた綻び
栄光の陰で、チームには綻びも見え始めていた。
強い情熱とリーダーシップは、時に周囲とのあつれきを生んだ。指導や運営方針に異を唱えられると、「グラウンドから去れ!」などと声を荒らげた。2002年頃にはコーチら3人が 袂 を分かった。
「来る者は拒まず」の姿勢も、結果としてマイナスに作用した。部員は多い時で200人を超えた。寮に入りきらず、マンションを借り上げて急場をしのいだ。
部員間にはおのずと温度差が生まれた。私生活にも目が届きにくくなった。大麻事件が起きたのも、主力以外の部員が入るマンションの一室だった。
小城さんは言う。「部が大きくなり過ぎた。部員が何人いようが、最後の一人まで面倒を見るのが指導者の責任だ。『知らなかった』では済まされない」
08年4月に活動を再開したラグビー部は、バラバラだった。
「反省しなければ練習に進めない」。春口さんは辞任前、大麻を吸引した12人に対し、自ら名乗り出るよう求めた。誰も手を挙げなかった。12人全員が不起訴になったこともあり、誰が大麻を吸ったのか、部内であいまいなまま事件が終わった。
「『こいつが吸ったんじゃないか』とお互いに疑心暗鬼だった」。08年に主将を務めた土佐誠さん(37)は明かす。
「誰だかわからないが、お前らのせいで将来がなくなった」。吸引を疑われ、就職を取り消されたある上級生は怒りをあらわにした。
このシーズン、大学選手権は1回戦で早大に敗れた。「ようやく終わった」。土佐さんは悔しさと 安堵 が入り交じる複雑な思いを抱いた。同期は卒業後、一度も一堂に会していない。「集まろうと思っても集まれない。まだ事件を消化しきれていないのかもしれない」と吐露する。
春口さんは10年、部長としてラグビー部に復帰したが、チームは低迷した。12年は関東リーグ戦を7戦全敗で終え、入れ替え戦で31季ぶりに2部に降格した。
この時の主将だった現日本代表の稲垣啓太さん(33)は、ラグビー部のブログにつづった。<結果を残せず後悔ばかりが残ります。苦い経験も自分を成長させてくれる糧として受け止め、今後の人生に生かしていこうと思います>
13年には監督に復帰したが、1部昇格を果たせず、1年で解任された。大麻事件後は一度も大学選手権決勝に進んでおらず、今も2部に低迷する。22人を輩出した日本代表も稲垣さんが最後だ。
あいまい対応「今思えば卑怯だった」
関東学院大ラグビー部は、まさにワンマンチームだった。元理事長で「総監督」としてラグビー部を支えた内藤 幸穂 さん(2014年死去)は、自著につづった。<ラグビー部はあまりに基盤が弱い。すべてが春口氏の下に集約され、他人が意見を差し挟む余地がまったくない>
自らも「選手の勧誘や指導は、自分の存在が前提となっていた」と認める。もし、分業体制だったらどうだったのか。「大麻事件は起きなかったかもしれない。急速に弱体化することもなかったかもしれない」。そう話す一方、「ワンマンで突っ走らなければ、3部のチームを日本一にはできなかった」とも自負する。
大麻事件時に主務(マネジャー)を務めた竹花耕太郎さん(36)は、当時の監督の言葉が忘れられない。「あいつらは悪くない。悪いのは大麻だ。あいつらを恨むのではなく、大麻を恨め」
「ラグビーは仲間作り」。日体大時代の恩師、綿井永寿さん(1998年死去)からそう教えられた。かつてたばこを吸った部員をやめさせた際、綿井さんに長時間諭された。「ラグビーをやめさせるのではなく、たばこをやめさせ、ラグビーを続けさせるのが教育者の役目だろう」
それが大麻を吸った12人へのあいまいな対応にもつながった。「今思えば 卑怯 だった。ケジメをつけるべきだったが、仲間を守りたかった」
いまだ事件のわだかまりは残る。「人生を狂わされた。自分は被害者だ」との思いも消えないが、「ラグビーは仲間作り」という信念は揺らがない。
現場復帰し「仲間作り」、新たな挑戦
8月21日、横浜市内のグラウンドで、 楕円 形のボールを追う女子選手たちを少し離れた場所から静かに見つめた。今年2月、女子ラグビーチーム「横浜TKM」の監督に就任した。監督として10年ぶりの現場復帰となった。
以前から競技の裾野を広げる活動には熱心だった。03年にタックルのない「タグラグビー」を教えるNPO法人「横浜ラグビーアカデミー」を設立。大学の天然芝グラウンドを開放し、練習や大会を続けてきた。「エンジョイ。楽しんで」。大学を辞めた後は、公園で子供5人を相手に指導したこともある。
自らグラウンドを走り回った以前とは異なり、今は細かい指導をコーチ陣に任せることが多い。「コーチたちの仕事をやりやすくするのが大切だ。もうワンマンではできない」。年齢を重ね、栄光と挫折を経験したことが、変化を促した。
「お帰りなさい」。今回の監督就任にあたり、リーグワンの地元チーム幹部から声をかけられた。涙が出そうになった。「もうラグビーはできないと思ったこともあったが、この年になってもまだやっている。本当に幸せだよ」。新たな挑戦を始めた名伯楽の「仲間作り」は続く。
社会部 大前勇(おおまえ・いさむ)記者 2010年入社。山形支局を経て、17年2月から東京社会部。横浜市の中学校でラグビーに励んだ当時は、関東学院大の全盛期だった。「大学日本一」の練習を見に行き、その迫力に圧倒された。35歳。