太平洋戦争中に多数の死者を出し、「無謀な作戦」の代名詞ともいわれる日本軍のインパール作戦。1944年に戦地で対峙(たいじ)した日英2人の元兵士が12日、作戦に参加した佐藤幸徳・旧陸軍中将(1893~1959)の眠る古里・山形県庄内町の墓前で握手を交わした。79年の時を越えた対面に込められた思いとは――。
この日、同町の乗慶(じょうけい)寺で佐藤中将の追悼法要があった。英国側から参列したのは、日英の和解に取り組む在英の民間団体「ビルマ作戦協会」(マクドナルド昭子会長)の交流事業で来日した旧英軍兵士のリチャード・デイさん(97)。佐藤中将が率いた第31師団の歩兵58連隊曹長だった佐藤哲雄さん(104)も、新潟県村上市から駆け付けた。
「ありがとう」。読経が響く本堂で焼香した後、互いに歩み寄った2人は感謝の言葉とともに固く手を握った。その後、佐藤中将の墓前に花を手向けたデイさんは敬礼し、「ここに集まっている人は皆、友達です」とほほ笑みかけた。
佐藤さんは、部下の命を守ろうと独断で師団を撤退させた佐藤中将が、常に前線に足を運んで部下を思いやり、声をかけていた姿を忘れられない。「弾も食料も補給されず、飢えや病で次々に死んでいった仲間が野ざらしになった。悲惨な戦いから生還できたのは、佐藤中将の決断のおかげ」。そう振り返り、「戦争は兵士だけでなく住民も巻き添えになる。絶対にしてはならない」と訴えた。
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きっかけは2010年。第31師団に所属して生還した旧陸軍中尉を父に持ち、英国人と結婚したマクドナルド昭子会長(72)が、ルーツをたどろうと佐藤中将について庄内町役場に問い合わせた1通の電子メールだった。
当時の副町長で、現在は町の交流団体の事務局長を務める奥山賢一さん(67)は「先人の思いを忘れてはならない」と、町内でも知る人が少なかった佐藤中将への理解を深めてもらおうと奔走。その後、町立小学校の副読本で取り上げられたほか、その生きざまを題材にした演劇も町民の手で上演された。日英で草の根交流も展開し、関係者が互いに訪問を重ねながら、今回の対面につなげた。
79年越しの和解を、佐藤中将の長兄の孫、佐藤茂彦さん(76)=同町=も感無量の面持ちで見守った。「無謀な戦いから撤退した行動は、現代からしたら当然に思える。でも当時はそういう時代でなかったために、命令に背いた不名誉な軍人とされた。『精神錯乱』の汚名を着せられた中で、戦死した部下の弔問を何年も繰り返していたそうです」。そう明かした佐藤さんは、こう続けた。「大事なのは、平和になること、平和にすることを、諦めてはいけないということではないでしょうか」【長南里香】
インパール作戦
終戦前年の1944年3~7月、日本軍がビルマ(現ミャンマー)から、英軍の拠点となっていたインド北東部にある都市・インパールの攻略を目指した作戦。険しい山岳地帯を進む計画は当初から補給面に問題を抱え、敗北した日本軍の参加兵力約10万人のうち、戦死者は約3万人、戦傷病者は約4万人とされる。撤退ルートでも死者が相次ぎ「白骨街道」と呼ばれた。