【ミクロネシア連邦=加藤学】厚生労働省は22日、トラック諸島(現ミクロネシア連邦チューク州)沖で、太平洋戦争中に撃沈された日本の艦船で遺骨の収集に向けた調査を行った。政府は「海没遺骨」の情報を積極的に集める方針を示しており、これを受けた対応だ。
連合艦隊の拠点が置かれていた同諸島は、1944年2月17~18日、米空母部隊の攻撃を受け、約40隻の艦船が撃沈された。今回の調査は21~24日の日程で、22日は、水深38メートルの海底に沈む給油船「 神国 丸」の船内に潜水士が入り、船室や鉄骨の間をライトで照らし、遺骨を確認した。23日以降、準備が整い次第、遺骨を引き揚げる。
第2次大戦では、軍民合わせて240万人の日本人が海外で死亡し、未回収の遺骨は112万柱に上る。厚労省によると、海中の艦船から収容されたのは約670柱にとどまり、今も30万柱が海に眠っている。
海底で朽ちゆく戦没船に取り残された遺骨の収集が前進し、高齢化した遺族らは一日も早い帰還を願った。政府が対応に乗り出した背景には、ダイバーらが船内で眠る遺骨を撮影し、SNSで拡散したことが問題視された事情もある。(中部支社 石原宗明、社会部 川畑仁志)
「父の骨を墓に納め、母と一緒に眠らせてあげたい」。茨城県結城市の佐藤雅子さん(80)は、父の大谷恒さん(享年32歳)の写真を見つめながら、そう語った。
大谷さんは東京高等商船学校(現・東京海洋大)を卒業した後、海運会社「大阪商船」(同商船三井)に入社。南洋諸島を巡る航路の船乗りとなった。
戦争の激化に伴い、同社の貨客船は次々に海軍に徴用されていった。大谷さんも特設巡洋艦に改装された「愛国丸」(1万438総トン)に乗り組み、戦火に覆われた太平洋を走り回った。
その中でも神戸市で暮らす家族への連絡は欠かさなかった。
<近々生まれる子供の名を……女子であったら雅子と謹んで命名致したい>。妻の芳江さん(2012年、96歳で死去)には手紙でそう伝えた。
1944年1月21日の消印が押された手紙では、<子供達のおやつはそろそろなくなることだろう>などと幼い佐藤さんを気遣った。
この直後、愛国丸は日本から約3000キロ離れたトラック諸島(現・ミクロネシア連邦チューク州)に向けて出港する。再び母国に帰ることはなく、44年2月17日、同諸島の環礁内で米空母部隊の攻撃を受け、暗い海に沈んだ。
当時1歳1か月だった佐藤さんには、父の記憶がない。親戚には「お父さんに似ている」と言われて育ち、あるとき母に「どんな人だったの」と尋ねた。悲しみが込み上げるからだろうか、母は「かっこいい海の男だったよ」と言葉少なに話してくれた。高校の修学旅行では、遺品のカメラを持ち出し、父に思いをはせた。
中学校教諭として勤務していた83年、水中写真家から愛国丸の沈没地点を特定したとの連絡を受け、現地に向かった。翌年には国による遺骨収集事業に同行。水深約60メートルの船内にいる父から「よく来てくれた」と声をかけられたような気がした。
このとき愛国丸からは349柱が引き揚げられ、現地では焼骨式も行われた。
佐藤さんは「機関長だった父がいたはずの機関室は底部にある。父の骨はないだろう」と思いながらも、「海の男が船とともにいる。このまま静かに眠らせてあげるべきだ」と考え、気持ちに区切りを付けた。
ところが、近年、外国人ダイバーが撮影した遺骨の画像がネット上に掲載されていることを知り、 愕然 とした。
厚生労働省は、こうしたケースについて「遺骨の尊厳が損なわれる」として問題視し、情報の収集を強化し、回収を急ぐ方針だ。
沈んだ場所が深い愛国丸は今回の調査対象から外れている。しかし佐藤さんは、「海が戦没者にとって守られた場所ではなくなっている。多くの遺骨を引き揚げてほしいし、子どもの世代が生きているうちにDNA型鑑定で身元を特定し、遺族の元に返してほしい」と訴えた。