学童や一般人ら1788人を乗せた疎開船「対馬丸」が、米潜水艦に撃沈されてからきょうで79年になる。
犠牲者は名前が判明しただけで学童784人を含む1484人に上る。しかし、日本軍は撃沈事件を軍事機密としてかん口令を敷き、いまだに被害の全容は明らかになっていない。
対馬丸による疎開が決まったのは、サイパン島が米軍の手に落ち沖縄への米軍進攻が現実味を帯びたころだった。
学童らが乗船する約1カ月前。沖縄の近海はすでに、日本軍の補給路を断とうとする米軍の潜水艦で戦場となっていた。
不穏な情勢を察知したり、島を離れることに不安を持ち、疎開命令にもかかわらず乗船しなかった住民もいる。そうした中の学童疎開で、安全性を考え軍艦での移送を要望する学校長もいた。
対馬丸は、他の疎開船2隻と、護衛艦2隻の計4隻とともに那覇港を出て長崎へ向かった。
米潜水艦の魚雷に撃沈されたのは出港の翌日のことだ。他の4隻は無事で、対馬丸だけが攻撃の的となった理由は今も判明していない。
はっきりしているのは「戦時下になれば安全な場所はない」という教訓だ。
戦時国際法は非戦闘員への攻撃を禁じている。民間人が乗った船舶への攻撃は、国際法違反のはずだった。
それでも去る大戦では、航行中に戦没した住民が後を絶たなかったのである。
■ ■
戦時中、米軍に攻撃されて沈没した沖縄関係の船舶は他にもある。
1942年から45年にかけて26隻が犠牲になった。沈没地点は南西諸島周辺だけでなく、旧南洋群島など幅広い海域に及び、死者数は少なくとも4579人(うち県出身者3427人)に上る。
米軍が慶良間諸島に上陸したのは45年3月。しかしその数年前から、海上は戦場となっていた。
あれから80年近くたった。
県は今年3月、他国からの武力攻撃を想定した住民避難の図上訓練を初めて実施した。訓練には先島の市町村担当者のほか、国の省庁関係者や自衛隊など約100人が参加した。
武力攻撃が起きる直前に離島住民の避難を想定した住民保護の訓練という。
だが、直前の避難で間に合うのか。避難先での生活の見通しは立つのか。そもそも現代の武器を前に避難で命を守ることはできるのか。
過去の疎開経験と比較した時いくつもの疑念が浮かぶ。
■ ■
戦争体験者の老いは急速に進んでいる。
今年は対馬丸の「語り部」として多くの場に立ってきた平良啓子さんも急逝した。
「戦争だけは絶対に許さない」と繰り返してきた平良さん。強い言葉には、いったん始まってしまえば非戦闘員であろうが、避難の最中であろうが、惨禍を免れることはできないという「戦争の実相」を伝えたい思いが込められていた。
後世に生きる私たちは直視せねばならない。