1923年9月1日、神奈川県逗子市の僧侶三田村 鳳治 さん(101)は、自宅の寺で激しい揺れに見舞われた。当時の記憶はないが、互いの「死」を覚悟したという両親の話は今も、胸に深く刻まれている。10万人超が犠牲になった関東大震災から100年。1日は発生時刻を前に、犠牲者を悼み、お経を上げた。(伊藤崇)
その日、まだ1歳だった三田村さんは、父 龍稔 さん(1958年に死去)が住職を務める法勝寺(同市沼間)の庫裏に、母ヱツさん(90年に死去)といた。正午前、寺が激しく揺れた。龍稔さんは不在。ヱツさんは幼い三田村さんを抱え、急いで裏手の竹やぶに逃げ込んだ。
逗子を襲った激震で庫裏に隣接する本堂は半壊。ヱツさんは三田村さんと一緒に、夜も竹やぶで過ごしたという。
仕事で東京にいた龍稔さんは、昼食の弁当を食べ終わる頃に大きな揺れに見舞われた。幸い大きなけがはなかったが、鉄道は被災して使えない。けが人や竹やりを持って警戒する人もいる中、線路沿いを歩いて逗子へ向かった。寺にたどり着いたのは9月3日だった。
三田村さんが両親から当時のことを聞いたのは小学校に入る前。2人はお互い「もう生きていないだろうと思った」と、激震のすさまじさを口々に語った。三田村さんは「生きて再会できた時は、本当にうれしかったようだ」と思い返す。
三田村さんは、その後も、激動の人生を歩んできた。16歳で出家し、21歳の時、学徒出陣で特攻隊に入隊。戦地に飛び立ったまま帰らぬ戦友を何人も見送った。終戦の玉音放送を聞いた時、「生き延びたのではない。僕は死に損なった」と思ったという。
それでも「助けられた命を次世代のために」と、逗子市議として街の発展に尽力。法勝寺の住職の傍ら、寺の一角に設けた幼稚園の園長も務め、あらゆる命を大切にすることを実践してきた。園では月1回ほどのペースで避難訓練や消火訓練、保護者参加の送迎訓練などを実施し、万が一の備えに力を入れる。
関東大震災の被災者の一人として、毎年9月1日には約10万5000人の犠牲者を慰霊するお経を読み上げてきた。
ちょうど100年となったこの日、入居する寺近くの老人ホームで、両親から聞いた話を他の入居者らに語った後、お経を読んだ。
「こうして生きているのは、仏様から託された使命があるからこそ。震災のこと、戦争のことを若い世代に少しでも語り伝えていければ」