1945年、沖縄・渡嘉敷島。「天皇陛下万歳」という声の後、山中に避難していた島民たちは日本軍から配られていた手投げ弾を次々と爆発させ、命を絶った。手投げ弾が不発だったり、行き渡らなかったりした家族らは、鎌や石、木の棒などを使い、親が子を、若者が高齢者を、男性が女性を殺し、残った人たちも最後は首をつるなどして死んだ。
太平洋戦争末期、米軍は日本本土を攻略する際の拠点として沖縄の占領を狙い、日本軍との間で約3カ月にわたる地上戦となった。
45年3月26~27日、米軍がまず上陸したのは、沖縄本島の西約40キロにある慶良間(けらま)諸島。島々では一般住民による「集団自決」が起き、座間味(ざまみ)島で177人、慶留間(げるま)島で53人、渡嘉敷島では300人以上が亡くなったとされる。米軍が4月1日に沖縄本島中部の読谷(よみたん)村に上陸すると、読谷村の自然洞窟「チビチリガマ」でも集団自決が起きて80人以上が亡くなるなど、本島各地や伊江島でも住民が自ら命を絶った。
背景には、兵士だけでなく一般住民も敵の捕虜になることを許さない「軍官民共生共死」の思想や、国のために身をささげることを求める「皇民化教育」があったとされる。日本軍は「捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は辱めを受けて殺される」などと、米軍への恐怖心をあおったため、多くの住民は米軍の手が迫る中、追い込まれ、死を選んだ。
沖縄戦での死者は日米合わせて約20万人。19万人弱が日本の犠牲者で、日本軍の軍人・軍属が9万4136人、一般住民が推計で9万4000人。当時の沖縄県民の4人に1人が亡くなったとされる。
戦後、沖縄は72年まで米国統治下に置かれた。集団自決については長い間、広く語られることはなかった。渡嘉敷島の集団自決は、島に当時駐留していた日本軍の元隊長が70年に沖縄を訪れたことなどをきっかけに軍の関与が議論となり、読谷村のチビチリガマでの集団自決については83年になって本格的な調査が始まった。【喜屋武真之介】