旧那覇市域の約9割が灰と化した1944年の「10.10空襲」から10日で79年となる。現在那覇軍港がある同市住吉町で暮らし、9歳だった當間孝太郎さん(88)は垣花国民学校に登校する途中だった。「静かな通学路は地獄のような道になった」。79年前に味わった恐怖が、ずっと脳裏に焼き付いている。(社会部・當銘悠)
10月10日朝、いつものように自宅を出て両側に石垣がある道を200メートルほど歩いた時、「ドカンドカン」と爆音が響いた。同時に、体が吹き飛ばされるような爆風に襲われた。
空にはグラマン機が飛び交う。「敵機来襲!」。間借りしていた民家の前で、掃き掃除をしていた日本兵の叫ぶ声が聞こえた。
「本当の空襲が来た」と実感した。一目散に走って自宅へ帰ると位牌(いはい)を抱いて右往左往する祖母の腕をつかみ、庭の防空壕に隠れた。直径1メートル50、深さ1メートルほどの小さな壕の中で、学校で教わった通り指で耳と目を押さえ、攻撃が収まるのを待った。
縦横無尽に米軍機が飛び交う中、日本が撃った高射砲の弾はそのはるか下で爆発し、全く届かない。日米の力の差を目の当たりにし、幼心にも「日本が負けるはずがないと信じていたけど、これは負け戦だなと。自分はいつ死ぬのか、どんな死に方をするのか」と思ったという。
空襲が一時やんだ昼ごろ、防衛隊に召集された父や外出していた母と妹が家に戻ってきて、全員で自宅近くにある他家の古墓に向かった。父が厨子甕(ずしがめ)5~6個を取り出して家族で中に入り、一晩を過ごした。
翌朝、父母と一緒に墓を出て高台から一変した那覇の街を見た。かやぶきの自宅もその周辺も焼き尽くされ、あちこちで煙が上がっていた。
具志の親戚の家にたどり着くと、父は「自分の家が全部燃やされた」と泣いた。初めて見た父の涙が今も忘れられない。
45年4月1日、米軍が沖縄本島に上陸。その頃には名護市中山の山中の避難小屋で、防衛隊の父を除く家族6人で身を潜めていた。間もなく中南部から大勢の人たちが避難してくると、炊事の煙で狙われたのか艦砲射撃が始まった。「死ぬ時はみんな一緒」と家族で川のそばのくぼ地に伏せて死を覚悟したが、生き延びた。
捕虜になり、飢えと栄養失調、マラリアで生死の境をさまよった。再会を待ちわびた父はとうとう帰ってこなかった。
「台湾有事」を念頭に軍備強化が進む。基地が集中する沖縄は、真っ先に標的にされるのではないかと危機感が強い。「いろいろな国と外交し、どことも戦争をしてはいけない。平和な時代を何があっても崩してはいけないんだ」。79年前の「沖縄戦の始まり」の日を思い起こし、そう強く願っている。